秋山駿の白熱教室

キトラ文庫通信「莢」6号(2014年1月発行)所収

秋山駿の白熱教室

 秋山さんが早大文芸課の講師として着任したのは、昭和47年の春、私が4年生になったときだった。授業初日、中原中也ふうの黒いチューリップ帽をかぶって現れた秋山さんは、教壇下の片隅にパイプ椅子を引き下ろして腰掛け(授業は毎回そこが定位置で、教壇上に登ったり黒板を使ったりということは一度もなかった)、開口一番「タバコを吸いながら授業していいかな。君たちも遠慮なくどうぞ」とタバコを取り出して火を点けた。私や数人の学生も火を点けた。続けて「保谷団地に住んでいるんだけど、保谷から早稲田までの交通費と昼食代で1回の講師代500円が飛んじゃう。バカらしいけど、平岡さん(平岡篤頼文芸課主任教授)からの直々の頼みなんで断れなくてね…。さて、授業のやり方だけど、毎週1冊現代小説を取り上げてそこに現実の肌ざわりみたいなものを探っていこうじゃないか。ついては誰か一人、毎週その作品を読んできて読後感を発表してくれるレポーターを決めよう。それを叩き台に、みんなで意見を出し合おうや。誰がやる?」こんな提案に手を挙げる者はいるわけがない。秋山さんは少し苛立って、「雑駁な報告でいいんだ。誰か一人中心になってやってくれると授業が活発になるんでね。誰かやれよ!」、と私たちの顔を見渡す。秋山さんはその前年、やはり法政大学で講師をしていた。その流儀でも通したいのだろう。気詰まりな空気のなかで、私が持ち前の義侠心を発揮せざるをえなかった。「はい、僕がやります」
 そんなわけで超多忙な大学最終年の日々が始まった。最初に取り上げたのは小島信夫『抱擁家族』、続いて古井由吉『行隠れ』、小川国夫『試みの岸』、遠藤周作『死海のほとり』、丸谷才一『たった一人の反乱』、安部公房『燃えつきた地図』、三島由紀夫『天人五衰』、吉行淳之介『砂の上の植物群』、椎名鱗造『深夜の酒宴』、大岡昇平『俘虜記』など。卒論の準備や他教科の勉強、塾講師のアルバイト、三越の配達のアルバイトもあって、この一年は単行本一冊を1日で読破するしかない日々が続いた。
 秋山さんの話し方は独特だった。一語一語を喉の奥から濾過でもするようにゆっくりと低い声で紡ぎ出す。話しにアクセントをつけるために、5本の指で眼前の空気でも引っ掻くような仕草や、腰の横に両手で円筒でも作るような奇妙な仕草。報知新聞の校正記者を辞めた後なので、よく勤め人時代の逸話も披露してくれた。それは学究生活一筋の他の専門教師たちと秋山さんとを画然と区別する大きな魅力だった。私には経済的なネックもあり、卒業後の進路としては大学に残りたくても就職するしか選択肢はなかったが、秋山さんの話しを聞いているうちに、就職も悪くはないかなと考えるようになった。
 あるときはこんな話しもしてくれた。その日は梅雨時で教室の窓の外は雨だった。「俺は雨が嫌いでね。子供のころ、防空壕で生活したことがあって、雨の日は壕内の土壁のヒビから雨がじとじと滲み出てくるんだ。…厭だったねえ」――これを聞いてから、私は秋山文学の原像である「内部の人間」のその萌芽は、実はこの自身の防空壕体験なのだと考えるようになった。小松川女高生殺しの李珍宇少年や連続射殺事件の永山則夫少年がバラックの片隅に背を丸めて必死に血の沸騰に耐える姿と、防空壕の暗がりのなかで土壁の雨滴を凝視しながら頭蓋内の惨劇に戦慄し続ける秋山少年の姿、それはとてもよく似ている…。
 秋山さんの思い出はそんなものだった。卒業後はお会いしたことはなかった。ところが今から10年前のことだ。秋山さんは東京新聞に自伝的エッセイを連載した。そこに語られているのは懐かしい教室での話しを思い出させるようなものばかり。ところが、こんなくだりがあって、おや、と思った。「駅から10分ほどのところに、友だちの家があった。東京空襲でそこら一帯が焼けた。友だちはしばらく、防空壕を深く掘り広げて穴居生活をしていた。(略)そのとき、人の力、生きる力、というものを痛烈に感覚した。わたしはいまでも、その光景が『生の営み』の原型として心に残っている」(平成15年5月8日東京新聞朝刊)。これを読んだとき、私は頭を抱えてしまった。40年前の教室で語ったのは紛れもなく自身の防空壕体験だった。友だちの話しでもないし、自分と同じ防空壕体験をしていた友だちもいた、という話しでもなかった。それが30年後、秋山老人73歳は自分の防空壕体験には一切触れずに「友だち」の防空壕体験についてだけ語っているではないか。それも憂鬱で厭だったという負のイメージとしてではなく、「生の営み」といういかにも秋山文学らしくない明るさのイメージを嵌め込んで…。なぜ「自分」が「友だち」に化けてしまったのか、どうやらここには晩年の秋山文学を考えるうえで興味深いものがありそうだ。
 それはともかく、その授業を受けた年の夏休みが過ぎるとこの教室も他と同様、出席者は疎らになり、いつしか秋山さんと私との長い対談の様相を呈していった。他の学生はあまり喋らず、「活発な授業は一人の中心から」との秋山メトードは破綻して、私だけが一人白熱し続けた。そして再び春が巡り、最終回の授業。秋山さんはこう締めくくって、私たちへの「贈る言葉」に代えてくれた。「君たちもこれから社会人になると、社会の原理みたいなものに絡めとられてどんどん自由な感性を失っていくかもしれない。俺は職場生活の中で悲惨な例を随分と見てきた。それを防ぐにはただひとつ。自分の頭蓋の中を常に冗談で掻き回しておくことだよ」――以来、63歳の今日まで、私はこの金言を一日たりと忘れたことはない。

 安田さん(キトラ文庫店主安田有氏)から『莢』6号への寄稿案内が届いたのは10月3日夕刻だった。さて何を書こうかと思案しながら翌4日の朝刊を開くと、「秋山駿さん死去」の訃報。記事内の顔写真が昔のようにのんびりした口調で「おいおい、何か書くんなら俺のことだろ」と笑った。合掌。