冬の旅

詩誌「coto」20号(2010年12月発行)所収

冬の旅

 私は長いこと、東京にある某通信社の製作部門で働いた。この通信社は虎の子の記者を擁する編集局や総務局、営業局以外、社内で子会社化できる部署はなりふり構わず子会社にしてコスト削減を図っていた。私のいた製作部もそのひとつで、だから通信社の製作部門といっても実態は、町中の零細な製作プロと変わるところがなかった。
 37年前、大学を出てからこの通信社の本社編集局でバイトを始め、やがて嘱託社員となったが、勤務中に小説ばかり読み耽っているので、ある日編集局総務から「こんど記事をコンピューターで配信する新システムを導入することになった。もう写植版下を契約社にファクス送信する時代じゃない。ついては製作部サイドにコンピューターを理解できる若い人材が欲しい。そこでお前さん、どうだい? もしお前さんが嫌なら外部から人を手当てするからいいんだけど…」という打診を受けた。新聞記者という人種はいつもこんな勿体つけた言い方ばかりする。要するに、いいトシしてロクにやる気もないお前さんだが、最後のチャンスをやろうじゃないか、断ったらもう先は無いと思え、という話。断るわけにもいかず、そろそろ30歳も近いし心機一転のつもりでその転籍話を受けることにした。それからまる2年、しばらく通わされた水道橋の日立コンピューター学校は楽しかったし、システム開発という仕事も新鮮で面白かった。ところが、である。やがてその新システムが完成し、いざ実稼働し始めると、私を待ち受けていたのは予想だにしなかったとんでもない職場生活なのだった。
この職場は、記者たちが送ってくる日々のニュースや官民の各団体が発表する膨大な文書・データ類を一括入力加工するのが主業務で、他に図表・グラフ・地図・イラストなどの作成も手掛けた。極端に言えばラ・テ(ラジオ・テレビ)欄と株式欄以外、新聞に載せるものなら何でも作る部署だった。30人ほどの入力スタッフ(ほとんど女性)、それぞれ数人ずつの内校正スタッフ(親会社の定年組)、デザインスタッフ(全員専門学校出立ての若者)がいて、さらに親会社内での出世競争から落ちこぼれた初老たちが入れ替わり立ち替わり役員として……。
 この手薄なスタッフで日夜時間に追われ、常に膨大なデータを処理しながらも、いざ大事件、大事故が発生すると今度はそれを最優先でこなすことを余儀なくされる。製作現場チーフの私は他の関連部署とひっきりなしに連絡を取りながら息つく間もなく立ち働いた。ビロウな話だが、深夜1時頃、朝刊早版の締め切り時間を過ぎてやっとトイレに立ち、便器の白さに見とれながら「あれ、今日初めてのトイレだな」とゾッとしたことが何度もある。そのせいか、六十路を迎えて最近とみにオシッコの出が悪くなった…。
 そんな職場で、私は常に孤独でもあった。40人ばかりの同僚の誰ともどうにもソリが合
 わなかった。社員慰労会や忘年会はいつも苦痛だった。後にウインドウズ95が出て、記者連中が自分で記事の入力ができる時代がやってくると、私の会社はみるみるその存在意義を失い、今から8年前のある日乱暴にも親会社は全員の身柄を丸ごと某コンサルティング会社に引き渡して会社の閉鎖解散を断行したのだが、その数年前から既に会社の雰囲気は陰々滅々、職場の体をなさなくなっていた。誰かに残業を頼むと「自分でやれば」と返答されたり、また誰かに職務上の注意をすると、「阿部さんにいじめられた」と役員に讒訴されたりした。もっとも、似た境遇の社員はもう一人いた。それは日共系の全国一般労組に加盟して独りステロタイプな活動に明け暮れていた、私と同い年の女性だったが、倒産を前に満を持して解雇撤回闘争に突入した彼女もまた最後まで全員にシカトされていた。今でも元社員たちは年1回、同窓会を開いて旧交を温めているのだとか。しかし私には一度も声がかからないし、労組の彼女にもたぶんそうだろう。
 だから若い頃からつき合っている親会社や別の子会社の同僚だけが数少ない友人だった。そして外国経済部記者の武智さんもそのひとり。私より2歳上、私同様永遠の独身、同じ東京の下町育ち、そして私以上のスキー狂でウマが合った。毎年よく2人で全国のゲレンデへ繰り出した仲だ。そんな武智さんが45歳にもなろうとする頃、突然ロンドン転勤を命じられた。レトロな下町の路地裏で母ひとり子ひとりのつましい暮らしを守る中年男には少し酷なその辞令を、「しでえな、しでえな」と下町訛りで慨嘆しながらの赴任だった。イギリスには高い雪山がなく、スキー場が無いらしいことも彼にはこたえた…。
 しかし、赴任して数か月が経ち、その年の瀬も近づく頃のことだった。突然その武智さんから国際電話が入った。「阿部ちゃん、今シーズンの予定は? イギリス人はみんなアルプスにスキーに行くんだとよ。シコーキでしとっ飛びだ。こっちの旅行代理店で手配しておくから、こっち来ないか」…そんなわけでそれから3年間、ヨーロッパアルプスでスキーする贅沢を味わうことになった。
 ご記憶の方もおいででは…。実はこの通信社ではそのしばらく前に、ある記者が業務命令を無視して1カ月の長期休暇を取り、欧州原発の取材旅行に出かけたことで配置転換という形で処分され、会社を相手取って原状回復を求める「バカンス訴訟」なる裁判沙汰を起こしたことがあった。いっとき世間の耳目を集めたその裁判が結審したばかりの時期だった。最高裁は「2週間ぐらいならまだしも、自分勝手に1カ月の長期休暇を取るのはべらぼうすぎる。この場合、会社の業務命令発動(時季変更権行使)は妥当でしょう」みたいな判決を出し、原告社員の敗訴が確定した。しかし社内ではこれを逆手に取って「そうか、じゃ2週間なら休んでいいんだ」という暗黙の了解が広がり、誰もが2週間のバカンスを取るようになった。もちろん私も2週間の休暇申請と旅行計画書を会社に提出してヨーロッパへ出かけた。

 これから語るのはその2年後、2回目のヨーロッパ・スキー旅行で経験した話である。その年は武智さんとマッターホルンの真下で滑ろうと決まり、1月15日から2週間の休暇を取った。日程としてはまず初日はロンドン郊外の武智さん宅へ一泊。で、せっかくの機会なので翌日から3泊4日で独りダブリンを訪れることにした。その後はロンドンに戻り、1週間の休暇を取る武智さんとジュネーブへ飛び、バスと登山電車を乗り継いでスイス・ツェルマットへ、という段取り…。
 ダブリンにはどうしても一度行ってみたかった。中学の音楽の時間に「♪~日が照りながら雨の降るアイルランドのような田舎へ行こう~」という歌をしつこく唄わされて、その不思議な自然現象を持つ遠い異国に妖しい憧れをずっと抱いていたし、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の世界をこの目で実感してみたいという思いも強くあったからだ。
 ロンドン・ヒースロー空港を午前11時に発ち、ダブリン空港には昼前に着いた。空港内のバーガーキングでフィッシュアンドチップスのランチ。その後ダブリンいちの繁華街オコンネル通りまでバスで30分。近くのバスターミナルに到着すると、そぼ降る氷雨のなか直ちにホテルへ。ホテルはコノリー駅のすぐ近くに予約しておいた。この駅は『ユリシーズ』にはアミアン・ストリートという旧駅名で登場し、付近は主人公ブルームとスティーブンが夜更けにへべれけになって徘徊する舞台として有名な地区だ。私のホテルも実名で登場する。いかがわしい登場人物たちのたむろする「夜の町」にもほど近い。フロントのお兄さんに、「夜の町はどっち?」と尋ねると、「外国人旅行者の行くところじゃない」とせせら笑われた。
 部屋に荷を解いてすぐオコンネル通りの観光案内所へ。ジョイス博物館の開館日を訊くと、窓口の美しいケルト嬢が「冬場は週1日しか開きませんのよ」とにっこり。「つぎの開館日は?」「ええと、明日ですわ」おお、なんとラッキーな! とりあえずその日は市内の目抜き通りをひたすらぶらついて過ごす。
 翌日も雨が降っていたが、コノリー駅から郊外電車にとび乗り、一路ダブリン南郊の港町サンディコーブへ。リフィー河口の殺風景な波止場界隈を抜けてぱあっとダブリン湾の風光が展ける頃、ようやく雨も上がった。明るくなった空の下、海面のきらめきが車窓近くまで迫ってくる。江ノ電で稲村ケ崎あたりを通過するような風情がしばらく続き、電車はのろのろと40分もかかってサンディコーブ駅に到着した。駅前からめざす海岸通りまでは道の両側の高い樹木の間にぽつりぽつりと色とりどりの田舎風住宅が建っている。人けのないその道を行くと、また雨が降り出す。「♪~日が照りながら雨の降る~」というのは実は「♪日が照ったり、急に降り出したり~」という意味なんだと気づいた。やがて海ぎわの道路の先に、憧れのマーテロタワーが見えてきた。若き日のジョイスが友達と住んでいたという、ナポレオン襲来に備えた要塞の廃墟。マーテロタワーの手前には小さな入り江があって、近所のおばさんたちが寒中水泳に興じていた。氷雨しのつく海辺をダッフルコートに40リットルの登山リュックという奇妙ないでたちの東洋人がひとり傘も差さずにとぼとぼ歩くのを物珍しげに波間から打ち眺めている。
 マーテロタワーの真下に、抱きすくめられるようにジョイス博物館は建っていた。山口県の中原中也記念館と同じような白亜の二階建て。入館料2ポンド(約200円)。1階と2階の展示室にジョイスゆかりの日用品、自筆原稿、書簡やデスマスクなど、また壁いっぱいにさまざまなパネル写真が並ぶ。ジョイス財団は肖像権にうるさいため多くが日本のファンには馴染みのない珍しいスナップ写真ばかり。でもフロアが狭いのですぐに全館見終えてしまった。ところでいちばん観たい長女ルチアの描いたケルト絵だけがどこにも見当たらない。受付の青年に尋ねると、にっこり頷いて案内してくれた。わからないわけだ、それは展示室の外、薄暗い階段の吹き抜けの片隅にぽつんと忘れられたように佇んでいた。ジョイスは生前、娘ルチアの姿が人の眼に晒されるのを何より嫌っていた、というエピソードが偲ばれて悲しい。小さな白熱灯に照らされた、腰の高さほどのガラスケースを覗き込んで、F3サイズほどの白い紙の上に幾何的に走るエレガントなコバルトブルーの細線に思わず息を呑んだ。これがあの有名な「ルチアの絵」か。天上から舞い降りたようなその美しさは喩えようがない。吸い込まれるように見入るばかりだった…。
 ジョイスの長女ルチアは23歳のときサミュエル・ベケットに失恋する。「ルチア、悪いけど僕が待っているのはあなたじゃない」「じゃあ誰なの?」「ゴドーなんだ」…もともと思春期から分裂病の兆候をみせていたルチアはこのとき決定的に発狂し、母親に暴力をふるうようになる。そこである日父親がチューリヒのグスタフ・ユングに診せたところ、そのユングに「お嬢さん、何か絵でも描いてごらんなさい」と言われて即座に描いてみせたのがこの絵だという。そしてその後リハビリの一環としてこれと同じような絵を何枚も描き続けたのだとか。それはケルト文化の至宝「ケルズの書」によく似た、精緻な装飾模様の絵だ。ジョイスの証言によると、ルチアは一度も「ケルズの書」を見たことがなかったという。それをなぜいともたやすく描けたのかと、ユングはただただ驚きあきれた。「おお、ナンタルチア!」…ともあれ、その画面に横溢する無上の静謐さ可憐さを思い出すたびに、いまだ私は、人が狂うとはいったいどういうことなのかとしみじみ考えてしまうのだ、周囲に跋扈する健常者の仮面をかぶった狂人たちに辟易させられる日々の中で…。
 やがて博物館を出てマーテロタワーの周囲を散策し、帰路をたどって例の寒中水泳の入り江に差しかかると、さっきはそこにいなかった初老の男が声を掛けてきた。水泳おばさんのうちのひとりの亭主らしい。「日本人か?」「そうだ」「今朝、日本の港町で大地震があって2000人が死んだのを知っているか」「えっ、なんという港町?」「ええと…忘れた。日本の港町の名前を言ってみてくれ」そこで「函館、宮古、釜石、気仙沼…」と「港町ブルース」を頼りに思いつく限りの地名を挙げてみた。「いや、どれも違うな。自分で調べてみてくれ」
 ホテルに戻り、ロンドン支局に電話すると、武智さんが「神戸だよ神戸。何もかもしっくり返ったらしい」…神戸かあ、港町ブルースには出てこないものなあ。「えっ、何だって?」「いや、何でもない。おれ、すぐ帰国するよ」「どうして? 本社は今頃地獄だぜ。ロンドン支局じゃみんな、阿部ちゃんは運が良いなあって感心してるんだ。おれもせっかく休暇取ったんだし」「なるほど」と、予定通り旅を続けることにした。実際このとき、東京の会社では地震発生直後から1週間ほど、全員泊まり込みで連日連夜働きづめだったという。
その日の夕刻、店内にテレビのある店で夕食を取ろうと、ホテル近くのパブに入った。随分と庶民的なパブで、店内に立ち並ぶテーブルの下を近所の常連客が連れてきた子供たちがのべつ走り回って騒いでいた。やがて7時のニュース。天上から吊った大型画面いっぱいに突然「KOBE」の4文字が。続いて物凄い惨状が次々とドアップになる。瞬間冷却で凍りついた。客たちのさんざめく声にかき消されて音声はさっぱり届いてこない。するうち、映像は何事もなかったように他のニュースに切り替わった。…ふう、参った。これじゃまるで吉原で酔い潰れているうちに討ち入りに馳せ参じ損ねた赤穂浪士じゃないか。ギネスをぐっとあおり、気を取り直して周囲の客たちを見わたすと、そんな極東の災害画面などを注視している人は誰もいないし、隣席の日本人に同情の言葉をかけてくる人もいない。相変わらず談笑に打ち興じているばかり。この光景は鮮烈だった。外国に居ることの孤独を肌で感じた。その素っ気ないダブリナーズの背中はどれも、独りぽつねんとギネスを呷りつづける日本人に「極東の地震なんてここで心配しても始まらないさ」と語りかけていた、「お前もここに居るんだから、あきらめな」と。以来、他国の災害ニュースに接するときは、彼らに倣ってくれぐれも空涙だけは流さないように自戒している。
 翌日は終日快晴。朝、コノリー駅のキオスクで「デイリー・エクスプレス」(英紙)を買う。一面トップに「恐怖の30秒そして或る世界の終焉が」との大見出し。二面、三面には阪神高速と三菱銀行がぐにゃりとひしゃげた大きなカラー写真。その隣で恐怖の体験を語る神戸在住イギリス娘たちの安堵の笑顔が異様に生々しい。「2500人が死亡、3000人以上が行方不明。日本人のテクノロジー信仰は崩壊した」と書き出す東京特派員電…。まんべんなく目を通してからぺしゃんこに潰れた肝を引きずったまま歩きだした。
 ダブリン3日目のこの日は、『ユリシーズ』の主人公ブルームが出没する舞台になる地区をその足跡をなぞって実地に歩いてみることにした。1904年6月16日、その日は多情な妻が交際中の男とわが家で逢う瀬を重ねる日だと知りながら、ブルームは朝から夜更けまでやみくもにダブリン中を歩き回る。現在ダブリンの街角にはブルームの歩いた道順が観光標識になってあちこちに設置されているらしいが、当時はそんなものはなかった。河出書房版『ユリシーズ』所載の地図を頼りにとぼとぼと歩くだけだ。
 小説を初めて読んだとき、平凡な中年男が、朝家を出て郵便局に行き買い物をし銭湯に入り友人の葬式に参列し職場に顔を出し図書館に行き酒場で喧嘩をし海辺で美少女の股間を眺めながら自慰に耽り知合いのお産に立ち会い酔って売春宿にしけこみ最後は深夜パブで締め…と、果たして一国の首都をたった1日でそれだけ踏破できるものかと素朴な疑問を抱いたのだが、実地に歩いてみると謎はすぐに氷解した。市街中心からブルームが馬車で行く墓地までは僅か3キロ、自慰をする浜辺までは同じく4キロ、路面電車を利用すればすぐの距離なのだ。ダブリンは盛岡ぐらいのこじんまりした町で、小説が原寸の大きさで忠実に現実の時空をなぞっているのがよく分かった。
 そして小説の中のさまざまなエピソードのことや「神戸」の今現在のことなどをとりとめなく考えながら歩き回るうちに、あることにハタと気づいた。…おや、俺はブルームの地理的道順だけでなく、彼の内面までをも追体験しながら歩いているぞ。ブルームのほうは妻を寝取られる傷心を抱えつつ歩き回り、一方こっちは1995年1月18日のこの日、職場での自分の立場を根こそぎ自然の暴威に寝取られた傷心を抱えつつ歩いている…。はて、どっちがマシな寝取られ物語なんだろう? 思わず立ち止まり、ふと後ろを振り返ると、黒いソフトに黒いスーツのブルームらしい太っちょがニヤリとして遠くの物陰に隠れたような…。
 帰国して会社に出た初日、案の定冷たい視線の集中砲火を浴びた。震災報道のドタバタはもう収まっていたが、話しかけてもみんなが素っ気ない。休憩室に旅のお土産をそっと置いておいたが、誰も取ろうとしないでそのまま。数日前には震災報道を振り返る団交が開かれ、「肝心なときに社にいない職制など不要だ」という私の話で労使が大いに盛り上がったのだとか。ひどい疎外感の日々が続くうち、やがて前にも触れたようにウインドウズ95の発売があり、陰々滅々の職場へと道はつながってゆく…。
 ダブリンのあと、次に訪れたスイス・ツェルマット村では麗峰マッターホルンがズタズタの旅情を慰めてくれた。その昔、「ロッテ歌のアルバム」のガーナチョコのCMで17歳の九重佑三子がアルプホルンを吹き鳴らすとき、その背後に聳えていたあの頃と少しも変わらない端正な姿で…。ツェルマット滞在中ずっとホテルのテラスからその永遠の頂きを打ち眺めながら、私は「東京・西新橋にほど近いあの建物よ、お前こそ崩れろ、崩れろ、崩れてしまえ」とひたすら呪詛しつづけたのだった。