漏刻のおと

漏刻のおと 詩誌「漏刻」23号(1987年2月15日発行)所収

×月×日
 この冬、肺炎を患ってしまい、ひと月余り会社を休んだ。血痰がでたので慌てて医者に行ったら「肺炎です。ひと月ほど自宅療養してください」と言い渡されたのである。その言葉を聞いた瞬間は、目のくらむ思いだった。肺炎など、金輪際自分には無縁な大病だと思っていたのに、えらいことになったと困惑したのである。しかし、そんなメゲた気分を察してか医者は、「なに、心配ないですよ。昔と違って抗生物質で簡単に治るんだから――」とニッコリ。それでまた素直な私はすぐに気を取り直すことができた。
 その後は別に血痰どころか、咳ひとつさえ出なくなり、胸の痛みなどの自覚症状もないし、食欲も旺盛だったので、私は毎日、中公文庫の『日本の歴史』と『世界の歴史』を片っ端から読んでいった。他にすること(安静状態下でできること)は何もないので、とにかく一心不乱だった。そこで報告――。『世界の歴史』では「フランス革命とナポレオン」(第10巻)、『日本の歴史』では「江戸開府」(第13巻)がずば抜けて面白い。お薦めできます。

×月×日
 ワープロを買った。三田寛子のCMで有名な<文豪ミニ7>という機種。三田寛子がなぜNECのCMに出ているかといえば、NECが三田に本社を置いているからだと思う。これはどうでもよい。私はコンピューターを使って文章処理をする、いわゆるデータプロセッシングの仕事をしている。システム立ち上げ前はNECの本社ビル14階会議室でよくエンジニアたちとソフト仕様の打合せをしたものだった。これもどうでもよい話だ――。
 そのNECのエンジニアたちも、<文豪ミニ7>の機能性能を盛んに吹聴するので、仕事とは関係ない私用に買ったのである。日記をつけてファイルすることもできる、ハガキを楽に書けるので「漏刻」編集時の通信事務も手間が省ける。いろいろバラ色に夢想して使い道を考えた。
 ところが、採字練習をしているうちにあっけなく故障してしまった。それを修理に出して、早く治ってこないかと待つうちに、今度は<文豪ミニ7E>という改良型が出た。これは<セブン>よりも随分とレベルアップしていた。ある日、日比谷のNECショールームで<E>を見ていたら、一世代前のものを売りつけられたことにむやみに腹が立ってきた。<セブン>も<E>も同じ値段なのである。<セブン>を買うときに、「もう少し待てば改良型が市販されますよ」ぐらい教えてくれてもよさそうなものじゃないか。修理に出した店に「<セブン>を下取りに出して<E>に買い換えられないか」と打診してみたら、ワープロにそういうシステムは無いという返事だった。クルマだって下取り制があるのに――。
 翌日、会社の後輩(パソコン、ワープロ、オーディオ、カメラマニア)に愚痴をこぼしたら「しょうがないですよ。そんな思い、誰だってしてるんだから」とのこと。技術革新とはこういうことなのだ、と高い授業料を払って<現在>のイロハを勉強した感じである。まず慣れること。高速のサイクルで押し寄せる技術の波に、私生活の場面でも慣れてしまうこと。一世代前の機種だからといって鬼子を見るように見てはいけない。かといって、少しの愛着を抱いてもいけない。<愛機>の幻想など持ってはいけないのだ。

 ×月×日
 (略)

 ×月×日
 会社の帰りに飲みすぎて電車を乗り過ごしてしまうことが多くなった。1駅、2駅の乗り越しならまだしも、とんでもないところで目が覚めるのである。私は日比谷線と東武伊勢崎線を乗り継いで日比谷と竹の塚(あの馬面の三遊亭円楽で有名な駅)の間を往復しているのだが、つい最近は竹の塚と全然関係のない千葉県柏まで行ったことが、中1日置いて2度もあった。どちらのときも、もう上りの電車は無くなっていた。タクシーを使うのも馬鹿らしいので駅前のミスタードーナツで始発を待ったのである。ミスタードーナツの店員が、3日のうちに2度も、それも計ったように同じ時刻に飛び込んできた酔漢をどう思ったか、こちらは知らない。1回目はどしゃ降りの雨、2回目も冷たい雨が降っていた。
 2度目にそこで夜明かしをしたときのことだった。誰もいない店の壁際の席で、独りバニラアイスを舐めなめジュースを飲んで、タバコを1本ふかし終わると、長椅子に横になってすぐに眠ってしまったらしい。そのときタバコの袋(買ったばかりで、残り19本が入っていた)をテーブルに載せておいたのがいけなかった。終夜営業のその店は、地元の不良少年たちの夜間の溜まり場になっていたらしく(この店に入ろうとして横切ってきたとき、駅前広場の隅には大勢の少年たちが何台ものオートバイを停めてたむろしていた)、目を覚ましてみると、タバコの袋がすっかりカラになっていたのである。灰皿は吸いガラだらけ。そういえば、眠っている間、確かに頭上でがやがや騒ぐ声が耳に入ってきた瞬間があった…。
 あとではっきりと目が覚めたときも、店内には私のほかに客の姿はなかった。私はあのワルガキどもをとっちめてやろうと、急いで表に飛び出していった。しかし、少年たちの群れはもう駅前広場から去って行ったあとだった。数珠つなぎに並んだタクシーの排気ガスだけが、雨のそぼ降るなかに白く浮き上がって見えた。夜明け前の静けさをつんざいて、一番列車の警笛がひとつ、けたたましく鳴り渡った。

 ×月×日
 『一度は泊まりたいホテル・旅館』(昭文社)というガイドブックのページをめくっていたら、箱根塔ノ沢温泉の<福住楼>という旅館の案内が目に留まった。こんな記述があった。「…多くの文人墨客の愛顧を得てきた宿としても有名で、吉川英治、川端康成、福沢諭吉、永井荷風など、そのそうそうたる顔ぶれは、ちょっとほかにない。…」また、ページの上半分を占めたカラー写真で見るその<福住楼>の構えは、いかにも文士好みらしい、ひなびて風格のある佇まい(したがって、見ようによってはすこぶる醜怪な趣き)である。私は妙な昂ぶりに襲われて、すぐさま3泊4日の予約電話を<福住楼>にかけてしまった。1週間後の出発予定である。
それから2、3日後、ふと気になって『1度は泊まりたい――』に列挙された文士たちが、いつ、どんな風に逗留したのか調べてみようと思い立った。そして、次の書物に当たった。――『文学散歩』(野田宇太郎)・『吉川英治全集』(講談社)・『川端康成全集』(新潮社)・『永井荷風全集』(岩波書店)。福沢諭吉には興味が湧かないのでよした。
 そしてその結果は、やはり早合点は良くないということだけを私に教えてくれることになった。いったいに昔の文士の温泉旅行などというものは、文壇の集まりか、執筆・保養の長逗留ばかりだろう、そして箱根など枚挙に暇がないほど文士がごちゃごちゃ出かけているだろうぐらいに簡単に考えて、右に挙げた書物それぞれの年譜でも開けばそれら文豪たちの福住楼での様子など、苦もなく知ることができるだろうと予想したのが甘かった。どの書物を開いても、福住楼どころか箱根のハの字もなかなか出てこない。おまけに、『1度は泊まりたい――』に謳われているような<多くの文人墨客の愛顧>など、福住楼という旅館はそれほど受けていない様子なのが徐々に判ってきたのである。旅行ガイド書の誇大表示?
 まず第一に、川端康成は「私に行きたいところを選ばせるなら、熱海と、湯ヶ島と、谷津と、土肥だ」(随筆「冬の温泉」)と書いて、箱根塔ノ沢など決して買っているのではないことが精査(?)の末に判明した。さらに荷風についていえば、彼はある新橋芸者(二番目の妻)と一緒に、33歳の冬に数日遊んだだけらしい。それもたったの1度きり。漱石に至っては、どうも漱石本人は投宿したことなど一度もないらしく、漱石夫人の実妹(梅子)が泊まったことがある、というだけのようである。漱石夫人から、修善寺で病気療養中(明治43年)の漱石に宛ててこんな手紙が送られている。「……梅子事末の弟を伴れて塔ノ沢の福住へ参り居りさふらふ処、水害のため福住は波に押し流され……」(思い出す事など)――漱石は漱石は生涯に2度、伊豆に逗留している(明43・大4)。しかし、そのどちらのときも箱根塔ノ沢へ足を延ばしたという記述には、全集を繙く限りではお目にかかれなかった。私ははぐらかされたような気分になった。……
 ――ここまで書いたら、はっきり言わなければなるまい。そう、勢い込んで福住楼に予約した私の目算とは、つまりそれらの文豪たちにあやかって同じ釜のメシ(?)を食べながら、彼らに引けを取らない作品を書いてくる、というところにあったのだ。3日間、ひとつ屋根の下(?)で宿に籠ってとびきりの作品を!(こんなこと本気で書いている自分が怖い)その目算がとにかく狂いかけている。キャンセルするなら今のうち。どうするか。
 でも気を取り直して、結局行ってみることにした。『1度は泊まりたい――』に挙げられた文豪たちのうち、ひとり吉川英治だけが福住楼で仕事をしていた。「黄昏少将辻話萩の夜がたり」という短編が、そのとき成ったものである。ちょっぴりパセティックな、悪くない小品である。やっぱり自分も福住楼で書いてこよう。それに塔ノ沢温泉というところは、透谷と藤村ゆかりの地であることも判った。『透谷全集』(岩波書店)にこんな一節があった。「吾は塔ノ沢の片ほとりに居をいとなみて、書を置き、住むの思切なり」(明23・3・16日記)――そう、そんな気分にあやかって。
 そんなこんなで夏の終わりのある日、箱根塔ノ沢へ出かけた。しかし、福住楼での成果についてはここではあえて触れまい。

 ×月×日
 英国ロイヤル・オペラ『カルメン』を観に行く。当代最高と謳われるカルメン歌手、アグネス・バルツァの肉声を初めて聴いた。ホセ役のホセ・カレラスの声も聴いた。これまで私はカラヤン指揮、ベルリンフィル、パリオペラ座合唱団という編成でアルコアからリリースされた録音盤(82年)でしか、この2人の重唱は聴いたことがなかった。2人の姿をこの眼で見る日を、私は随分前から楽しみに待っていたのだった。
しかし、レコードだけで親しんでいる歌手を最初に見たとき、それまでの印象が全く変化することはよくあることだ。この『カルメン』を観たときにもそういう変化が私の内部におとずれたのである。アルコア録音盤で聴くとき、バルツァの歌は高音部低音部それぞれの振幅に細心の注意を払い、強弱の変化にはあたかも色彩の濃淡によって陰影を彫り込むように対応して、軽くリリックなその声質がカラヤンの流麗な旋律によく溶け込んでいた印象がある。そして、それに絡むカレラスの歌のほうは力強さ、抑揚の確かさという点で圧巻ではあるものの、その野太い声質がバルツァの軟質な声とどこか噛み合わず、最期まで違和したままフィナーレへ駆け抜けた感があるのだった。録音盤についていえば、バルツァのほうに魅せられる。
 ところが、というよりそれだけに、今回の客演では戸惑うほどの印象の変化を私は体験することになった。バルツァの声質はもしかすると、指揮者の腕前ひとつで繊細な輝きを放ちもし、また線の細さが際立ちもする、危うい魅力をはらんでいるということか。舞台から流れる彼女の肉声は低音部が太く加圧され、そのぶん高音に張りが乏しいという印象を伝えてくるのだった。カレラスのほうはやはり圧巻だったのだが。彼はその重厚な、そしてやや弾力に欠けるきらいのある声質をうまく統御して、私の耳目を釘付けにしてやまなかった。
 ――しかし、公演の印象記はこれだけにしよう。(略)
 ここから先は劇評とは関係ない。私の興味は、なぜあんなにも『カルメン』は面白いのか、というところにあるのだ。私たちはここで、ロイヤルオペラの舞台から眼を転じて、『カルメン』の物語そのもののほうに向かわなければならない。
 日本では『カルメン』は、そのとびきり通俗的な劇と音楽によって、他の何よりも近しいオペラのはずである。しかし、通俗的に過ぎるせいか、日本のクラシックファンでこのオペラにのめり込む人はあまりいないようだ。ワグナー、モーツァルト、プッチーニ等々に関する書物なら比較的容易に手にすることはできても、ビゼーの歌劇について書いた書物などは、東京のどこを捜しても見つけ出すのが難しいのである。現に私は、神田の古賀書店(音楽専門)と2、3の都立図書館を回ってみたが、求めるものはどこにもなかった。ドイツオペラ、ウィーンオペラ、イタリアオペラに関する書物は散見されても、ビゼーに関するそれは皆無に等しい。そこで私は、どうやらこういう現状の背後には、日本におけるクラシック専門家たちの奇妙な偏愛、知的趣味的軽重への偏頗な神経過敏が潜んでいるのではないかと疑っている。
例えば、吉田秀和氏――「私は、これまで、自分は『カルメン』が好きだとばかり思っていた。…ところが、実は、あの音楽が、きらいなのだった。」(吉田秀和全集5)。彼が『カルメン』を嫌う理由は、「過ぎた昔の流行歌みたい」「あけっぱなしで傍若無人に提出されるふしの連続」だからだそうで、おまけに、評論家としてカブリツキで観たので踊りのときホコリの飛来に悩まされ放しだったからなのだそうだ。たぶん、𠮷田氏に限らず、日本の専門家は多く似たような感性をもってこの『カルメン』に対峙していると推察できるだろう。
しかし、偏重への情熱を裏返して趣味の洗練だと錯覚しているらしい彼らの言葉がどうであれ、私はいま『カルメン』にのめり込んでいる。プッチーニやワグナーやモーツァルトの歌劇を、悲しいかな私は、NHKの「芸術劇場」でしか観たことがない。専門家たちとはいちばん違うところだ。しかし、それらテレビで観たどの名作よりも断然『カルメン』のほうが面白い。これは確かなことだ。ニーチェが『カルメン』をワグナー楽劇へのアンチテーゼとしてとりあげ、「音楽を地中海化しなければならぬ」と言ったという有名なその言葉に、私は心から共感したい。
 ともあれ、私の場合、なぜそれほど『カルメン』に執心するかといえば、ニーチェとは少し違った意味合いでである。それは、ビゼーがこのオペラを、今の私と同じ36歳のときに創ったという点にある。年齢を引き合いに出しての親和化など意味があるはずもないが、ビゼーがこのオペラを幾多の部分からコムポーズ(構成)してゆくその現場、あるいは創造の過程でこの作曲家に鬱勃として沸き起こっただろう意匠への確心ともいうべきものが、おぼろげながらもこちらに伝わってくるような気がするのは、ビゼーの36歳という、芸術家生活の円熟期に入ろうとするその年齢が大きく関わっているように思えるのである。それはおぼろげにしか伝わってこない。けれども、それがおぼろげでなくなるためには、『カルメン』創造の秘密を解明させてくれるための素材を提示してくれる、ある種の書物が必要なのである。私は神田神保町で、図書館等で、それを捜したのだったが――。それはともかく、<物語>の話に入ろう。

 ご存じのように、歌劇『カルメン』の原作は、メリメの同名の小説である。歌劇のほうも面白いが、小説のほうも面白い。前者と後者の間には、筋立ての枠組みという点で大きな違いがある。小説のほうはカルメンとホセ2人の<対>的な恋愛劇で終始しているのに対し、オペラのほうでは、カルメンとホセと闘牛士の三角関係が基調になっているのである。いわば小説のほうは男女の心理劇の面白さ、一方、オペラのほうは三角関係の軋みが立てる音と音との間隙に、厳選された曲想を嵌め込んでいった面白さとでもいうべきだろうか。小説とオペラはそれぞれ別個の物語だとも言えるほど、その枠組み上の差異は大きい。さて、両者の比較はこれぐらいにして、話を進めよう。
 ビゼーのオペラは、そのオリジナル台本に三角関係を導入したことで、はじめて傑作として後世に残る途を開いたと言えるのである。なぜなら、台本はビゼーの2人の友人が共同で書いたものだが、小説という観念の舞台と違って、オペラという視聴覚的舞台では、<対>の心理劇でなく、三角関係劇のダイナミズムこそがカルメンという独特の個性を鮮烈に躍動させうるための必須の与件だからであり(単に3人が絡んだほうが賑やかになると台本家たちは考えたのかもしれないが)、さらにはそれこそが、台本書き上げから初演に至るまでの阻しい道――劇場側の要求による数次の台本修正、初代カルメン歌手からの技法的・趣味的要求による歌詞書き直し――と、その後のグランドオペラ・スタイルへの変形、さらに現代になってから(20年前)の初演形式への復元上演等々にも堪え抜いて、今日までよく命脈を保たせた最大の原動力になったからなのである(ちなみに、『カルメン』が現代にまで命脈を保っていることの証拠は、カルメンのような激しい女性像が戦後日本で抵抗なく受け入れられている点にある。私たちの周囲はカルメンたちでいっぱいだ。世のホセたちへの同情を禁じない)。
けれども、私にとってのオペラ『カルメン』の面白さとは、もっと別なところにある。そう、ビゼーの年齢の問題。円熟期には自らの<創造>に取り込むアイディアの幅が大きく広がる。――例えば、有名な<ハバネラ>の曲は、あるスペインの歌からの剽窃であることが指摘されているし、第一幕の終曲<誘惑の歌>も何かからの援用であるらしい。さらに第二幕<ジプシーの歌>もそうらしいし、また私の憶測だが、たぶん<闘牛士の歌>もその類なのだろうと思う。ともあれ、ビゼーが全編を通じてふんだんにスペイン民謡を採り入れているらしい、そのことがすこぶる興味深いのである。実を言えば、私が『カルメン』に関する書物を虚しく捜し求めることになったのは、ほかでもない、どの曲がどんなスペイン民謡から成り立っているのか、その詳細を知りたかったからなのだ。その対応関係を知ることで初めて、今はおぼろげにしか把えられない、ビゼーの創造過程での意匠への確心とでもいうべきものが、明確な形をとってこちらに伝わってくるはずなのである。そのとき、ビゼーが<オリジナリティ>というものをどう考えていたか、その秘密にも肉薄できるに違いないと思ったのだが。
 ビゼーは『カルメン』作曲中にパリ音楽院の図書館で、スペイン音楽についての資料漁りをし、サラサーテ(スペイン人)の教示を直接受けたりもしているのだから、やはりスペイン民謡との類縁関係は充分明らかにされる必要があるだろう。チャイコフスキーの『バイオリン協奏曲』中に、『カルメン』第三幕のある旋律と似た曲想があったので、チャイコフスキーからの借用もあるのかと早合点したが、これは影響関係が逆のようである。「チャイコフスキーはこの『カルメン』を深く理解していたのだった」(エリスマン『チャイコフスキー』)。また、『フラメンコの歴史』(浜田慈郎・晶文社)にも、示唆に富む記述はあった。例えば、スペイン音楽につきもののギター・ソロのこと。『カルメン』には小道具としてもオーケストラ楽器としてもギターは登場してこない。ビゼーがギターを排除したところに、作曲上の工夫があったように思うのだ。この書物によると、近代以前のスペイン民謡には、ギター・ソロは伴わないのが普通だったという。あるいは『カルメン』の踊曲とフラメンコ以前のスペイン舞踊<ファンタンゴ>との類縁。――とにかく、良く調べてみる必要はあるだろう。
 結局、内外の専門家たちは、ビゼーによるスペイン民謡剽窃の有無について明らかにすることは、その創造性を貶めることになると考えて研究しないのか、研究の結果そうした事実関係は見当たらないとしてどんな書物も書き表そうとしないのか、私にはわからない。しかし仮にそこに剽窃の事実関係があったとしても、それは決してビゼーの評価を下げることにはならない。それが明らかにするのは、ビゼーの内部に湧出する情熱、<オリジナリティ>の旧来の通念に風穴を開けて自由な飛翔を試みようとする情熱の所在そのことなのである。
 ちなみに、原作のメリメについていえば、彼は執筆に先だって周到な現地調査をしているらしい。原作の物語は、実際にスペインで起きた殺人事件を扱っているのだ。しかし、ここでも解説書の類は、その事件の真相を私たちに正確には伝えてくれない。宮沢縦一『カルメン』(音楽之友社)には「メリメは……旅先で世話になった伯爵夫人から、<嫉妬のあまり情婦を殺した山賊>の話をきいた」となっているのに対し、岩波文庫『カルメン』解説では、「テーバ伯爵夫人は……女のために人を殺して郷土を売ったナヴーラ生れの男の話を作者に伝へている」となっている。いったいホセは誰を殺したわけなのだ?いい加減な本が多いことだけが確かなのかもしれない。通俗的な物語として万人に親しまれているわりに、不明な点も多いのが『カルメン』の魅力なのか、それはまるで<カルメン>という女性の謎そのもののように見える。

 ここで素朴な問題提起。いったいカルメンはいつ、なぜホセを嫌いになってしまったのか?オペラのほうではその答えはいたって簡単。明らかに闘牛士の出現を契機とする。それに対し、小説のほうは少し事情が複雑である。
 「妾や人に散々頭を下げさせるやうな男は嫌ひさ。最初の時は何か得がいくかなんてことは考へずに、もっと有難ひことをしてくれたじゃないか」(小説『カルメン』)
 「いいかい。お前がほんとに妾のロム(夫)になってからと云うものは、妾はお前が妾のミンチョーロ(恋人)だった時より好きにはなれないのだよ。妾やいじめられるのが嫌ひだが、中でも横柄ずくで物を云はれるのが一番嫌ひさ」(同)
 ――何やら下町のおかみさんみたいな口調だが、男の心が資本制の呪縛に絡めとられてしまった有様への、ジプシー女(前近代性)からの痛烈な指弾となっているセリフである。ホセのなかから、初心の無垢な献身的情熱が失せたのを見透かしたカルメンは、確かにこの言葉を吐いた。しかし、カルメンはこんな言葉とは裏腹に、最後までホセへの恋慕を失ってはいないのである。小説を読めば誰にでもわかる。したがって、ホセのカルメン殺しは、いわば未遂の無理心中のようなものだ。さきに、小説のほうは<対>の恋愛劇だと言ったゆえんである。小説に較べたら、オペラのカルメン像のほうは、個性が強烈というよりあまりに個性が単純化され、その一面性だけが極端に増幅された像だというべきかもしれない。これは劇場側との妥協の産物、ミカエラ(淑女像。カルメンへの反措定)の創出とともに、オペラ台本の最大の欠点として指摘されるだろう。しかし、三角関係の布置という偶然が、そのダイナミズムによってまたしても、ここでカルメン造型のその欠点を補っているのではある。
 「近代を襲ったこのような恋愛という主題、また三角関係という主題、そしてそれを呼び寄せた自己の表現的自己に対する関係づけの障害は、あるいは資本制社会に連動しているのかもしれない」(三浦雅士『主体の変容』)
 ――それにしても、36歳のビゼーがどんな素材をスペイン民謡から収集し、それをどの場面に象嵌してのけたのか、くどいようだがこの手で探ってみたい。そこには真の意味での<オリジナリティ>の秘密が隠れている気がする。私の夢――スペインに長期滞在すること。(略)
 「スペイン精神の現れである多彩な民族音楽に秘められた鉱脈はまだまだ掘り尽くされてなどおらず、芸術音楽を生むための素材としてもなお無限の魅惑的な可能性を湛えている」(浜田慈郎『スペイン音楽のたのしみ』)