オフィス・ライフ

詩誌「なだぐれあ」7号(1990年4月発行)所収(「アベノーマル日録」より)

オフィス・ライフ

2月17日(土)晴れ
 今日は遅番、午後2時出勤である。会社は某通信社の100%子会社で、オフィスは親会社のビル内にある。人の動線でいえば、親会社と子会社の区別がないも同じだ。今日も出勤するなり、ぼくのデスクあたりに親会社の人が2人いて、同僚の若い連中と何やら話し込んでいる。どうやらぼくの出社を待っていた様子だ。ひとりは編集局次長だった。彼がぼくの姿に気付いた。
「おおい、阿部君。仕事がキミを待ってるぞ」
「ご指名ですか。テレちゃうな」
「明日の朝刊用なんだ。大急ぎで頼むよ」
 数字がびっしり並んだ資料を3本渡される。3種類のグラフを作らなければならない。その隣にいた政治部のデスクが、
「2時間ぐらいでできないかい」と言う。
「ムリですね。5、6時間はかかりますよ」
ぼくはこの頃、打てば響くような応対をしなくなった。もっと早くできる仕事でもサバを読むことにしている。安全第一で行くわけだ。局次長と政治部が、グラフだけ後送の方針を相談しながら帰っていった。
 グラフのための資料を見ながら、政党支持率やら過去の投票率やら数字をケント紙にグラフ化していく。定規と電卓とロットリングの作業だ。チマタでは今度の総選挙をイデオロギー対決のイベントとして注目しているが、選挙報道に絡んでこんな仕事をさせられるぼくには、選挙なんて数字だけじゃないかとしか思えない。
 やがて、社員たちがタイムカードを押して一斉に帰っていく。数人の遅番だけになる。前回の総選挙のことがいろいろ思い出される。あの時は随分若かったような気がする。まだ3年しか経っていないというのに。
 ふとこの前、呑み友達のSさんと<自民党過半数割れ>云々について議論したことが頭に浮かんだ。ぼくは<国民もバカじゃないから過半数割れなんてない>と主張したら、彼は<そうかね。国民はバカだと思うけどな>と笑っていた。机の上にある予想議席獲得数の数字を眺めていると、過半数割れの線はもうなさそうだ。それがバカだからなのかバカじゃないからなのか、考え始めたら混乱してきた。
 コーヒーが飲みたくなって休憩室の方へ足を運んでいくと、赤ん坊の声が聞こえてきた。もしや、と自然に自分の顔がほころんでしまうのが分かる。やはりそうだった。去年退社したW子さんが無事出産して赤ん坊の顔見せに来たのだ。女子の多いこの会社ではこれがよくある。大概のときは、ぼくも一応の挨拶だけで済ますのだが、このW子さんが来る日だけは前から心待ちにしていた。
 彼女が20歳で入社してまもないある日突然、家庭問題の相談を受けたのだった。あどけなさの残る顔がみるみる沈んで、彼女は自分の複雑な家庭環境のことをTBSの家庭ドラマのように語った。ぼくは安藤鳴人さんと違って、人の悩みなどに適切なアドバイスを送ることが何より不得手なので、話を聞いても困惑するだけだったが、とにかく一緒に警視庁や家庭裁判所に行ってやり、やがて当面のトラブルだけはクリアすることができた。
 裁判所からの帰り道、彼女は春風のなかでぽつりと云った。
「阿部さん、いろいろ迷惑かけてすみません」
「いいんだよ。それよりこれからも絶対ヤケな生き方だけはしないって約束して」
「はい」
 運よく法的なトラブルは解決できたにしろ、それで彼女の家庭環境がそう好転したわけではない。一抹の不安を感じたからこそそう約束させたのだった。それがどうだ。もうひとつの不安が現実になってしまった。人の気も知らないで、だれかの子供を作り、結婚までしてしまいやがって……
「元気そうな赤ちゃんじゃない」
「久しぶり。阿部さんも相変わらずですね」
 彼女の笑顔にはいまだに弱い。しばらく赤ん坊をあやしてから、再び仕事に向った。

 端末を使って数字を入力していると、隣にいた遅番の女性キーパンチャーから
「今年は特別ボーナスどうなるのかしら」
と訊かれた。親会社でもぼくらの会社でも<特別ボーナスが今年も出そうだ>と噂されるようになったのは、まだ去年のうちからだった。冬のボーナスが出たばかりの頃である。この数年とにかく儲かっているらしいのだ。
 金融業界向けのコンピューターサービスを始めたのが当たったという。親会社の社長もリクルート株を貰って一時足元がグラついたが、金融サービスの大ヒットで命拾いしたらしい。万年赤字の代名詞みたいに言われたマスコミでさえこうなのだから、余所の業界はさぞやべらぼうな儲かり方をしているのだろうと思う。
 この数年、ぼくらの親会社からも若手の経済記者がつぎつぎに金融業界にデューダしていった。そのうちの一人から聞いたところでは、<ぼくの齢では、もう為替ディーラーとしては限界に近かった>とか。ちなみに彼はぼくと同い年である。ディーリングルームでは反射神経が勝負だそうだ。でも、彼の話によると、ぼくがイメージしていたのと実際のディーリングとではだいぶ様子が違うらしい。為替の高安に絡む情報などすべてパターン化して読み取るから、けっこう楽なのだと。昼も夜も端末に釘付けになるヤツなんてまずいないし、睡眠時間だって普通のサラリーマンとそう変わらない。どんな小さな情報でも風が吹けば桶屋式に売買に響くという話もウソだし、<まあ、ほとんどテレビゲームやってるような毎日だよ>

「特別ボーナスは今年は出ないみたいだよ」と、非情な最新情報を彼女に教えてあげた。
「えーっ、どうして」
「今年は設備投資にかかったからだって」
「設備投資って?」
「コンピューターとか高い機械をいろいろ買ったからじゃない?」
「だってコンピューターなんて毎年買ってたじゃない」
「そういえばそうだよな。なんで今年だけ設備投資なんだ」
ぼくも急に納得いかなくなった。向かう先のないあいまいな腹立ち。
「阿部さん、何の原稿?」
「これ? 総選挙のグラフ」
「さっきの人たちでしょ。なあに、あれ。急ぎだったら阿部さんが来るまで待ってないで、グラフぐらい自分たちで作ればいいじゃないねえ」
「おれがなんでダーティーハリーって言われるか分かるだろう。人の嫌がる仕事ばかりやるからさ」
「???」
「これ、『ダーティーハリー』に出てくる、ハリー刑事のセリフ」
 彼女は絶句する。ぼくも変わったのだ。総選挙前日にこんなにゆったり仕事していられることは初めてだ。今までは選挙報道というと、首までどっぷりだった。初めて完全コンピューター化されたお陰で出番が無くなった。少しずつ確実に楽になりつつある。

 やがてW子さんが赤ちゃんをおぶって暇乞いの挨拶にやってきたので、咄嗟に新居の電話番号を教えてもらった。電話さえ聞いておけばその人との繋がりは切れないというオマジナイからまだ抜け出せない。