革命200年祭前夜

詩誌「なだぐれあ」6号(1989年11月発行)所収(連載「アベノーマル日録」より)

革命200年祭前夜

7月13日(木)快晴
築山登美夫と二人で、花のパリ見物にやってきた。革命200年祭の明日でちょうど1週間になる。二人ともパリは初めてだが、ここまで5日ほどの滞在でだいぶ市内観光にも慣れてきた。毎朝ホテルで朝食を摂りながら「さて、今日はどこへ行ってみようか」と二人でブラブラ出掛けるパリ見物だった。ところが、200年祭の準備のための当局の厳戒体制のせいで、まだ見物していないルーブルなどの美術館は今日明日と閉館らしい。市内にいてもしょうがないので、ふと思い立ってイリエの地へ行きたくなった。
 築山はイリエなどに関心はないようなので、今日はパリ到着以来初の別行動だ。ぼくにとってプルーストへの思い入れは築山にとってのボードレールのようなものかもしれない。彼は一昨日、モンパルナス墓地でボードレールの墓石をみつけ、「この下にボードレールの遺体があるんだ!」と、実に感慨深げだったが、ぼくにしたってイリエの地に実際に足を踏み入れられるなんて、まるで夢のようなのだ。
 イリエの町は現在「失われた時を求めて」にちなんで、イリエ・コンブレ―と改称されている。G・ペインターの「マルセル・プルースト」にはこう書いてある。
≪コンブレ―とその章が小説全体の縮図であり、その主題と事件のすべてを萌芽の形でふくみもつ必要があった。(略)彼がどんなに遠くコンブレ―から離れているように思えても、実は円い軌跡を描いてそこにたちもどっているのでああり、<見出された時>は<見出されたコンブレ―>にほかならないのである≫
 モンパルナス駅10時50分発の鈍行に乗り、まずシャルトルまで行く。シャルトル着はちょうど正午だった。シャルトル駅の窓口で「イリエまで」と云ったら、駅員が「早く5番ホームへ行け。あと1分で発車だ」と大声で言う。慌てて列車に飛び乗った。
 シャルトルから先の窓外の風景はすっかり一変して、見渡す限り緩やかに起伏する田園の地平線だ。車内に乗客は少ない。隣に座った岡田嘉子によく似たおばあさんに「イリエはあといくつだ」と聞いてもよくわからない。ぼくは仏語ができないので、聞くだけ聞けても返事が理解できないのだ。しょうがないから、単語対単語のヘンな会話をイリエまで続ける。おばあさんのほうも意味が通じることに意味を見出していない風情でよく喋っていた。
 シャルトルから25分の田舎駅だった。おばあさんも一緒に降りた。午後零時半、とうとうイリエの町に降り立つ。駅前からまっすぐに延びるプルースト博士通りは、どこか田園調布の風景に似ている印象だ。大きなマロニエの並木が美しい。明るい午後の陽射しの下、キリコの絵のように人の往来がないのは、町の人々が一斉にバカンスに入ってしまったからだろうか。
 一緒に降りたおばあさんは、プルーストが幼年期を過ごした<レオニー伯母さんの家>までわざわざ案内してくれる気配だ。レオニー伯母さんの家は現在プルースト博物館になていて、プルースト存命当時そのままに、彼の使用した調度類を保存しているという。
 駅前通りを500メートルほど行って右折すると、あの<マルタンヴィルの鐘楼>で有名なサン・ジャック教会が行く手に見えた。中世風の質朴な教会だ。ヘンな気分だった。なぜか長い間、この教会の外壁はオレンジ色の煉瓦で出来ているとばかり思っていたのだ。しかし、実際に見る建物は地味な灰褐色の煉瓦ではないか。そういえば、日本で見た写真はすべてモノクロばかりだった。色なんか知っているはずがなかったのだ。やがて、おばあさんが「ほら」と、ある白壁の二階家を指差して教えてくれた。<レオニー伯母の家>と書いた標識が道路端に立っていた。ドアに吊るした案内板には、「5時半から7時半まで開館」と書いてあった。まずい、開館まで待てば、パリ着は夜中になってしまう。館内に入ることは諦め、辺りをブラブラするだけで帰ることにする。
 結局、わずか1時間のイリエ滞在だった。帰路シャルトルに立ち寄り、駅前の坂道にあるカフェで食事。ビールとチーズサンドで約400円。ばかに安かった。シャルトルも人通りが少ない。ノートルダム大聖堂を小一時間ほど見物してパリ・モンパルナス行きに乗る。
 モンパルナス駅へは思ったより早く着いた。まだ4時過ぎである。まっすぐホテルに戻っても築山はまだ市内見物から帰っていないだろうし、どこかで買い物でもしていこうと、サントノレ通りへ回ってみることにした。
 地下鉄のルーブル駅を出てパレ・ロワイヤル付近の雑踏を歩いていると、偶然築山と出会う。お互いに驚き、カフェに入る。築山は今日は体調がよくないらしい。「平衡感覚がおかしい」と、しきりに首をひねっていた。そういえば、顔色が悪いような気もするが、カフェで少し休むと「大丈夫」というので買い物につきあわせてオペラ通りへ。
 6時過ぎ、ポンピドゥーセンターへ向かう。途中、サントウスターシュ聖堂前の芝生で休む。もう7時になるのに、まだまだ陽射しが熱い。築山は芝生の上で、子供に買った土産をバッグから取り出し、メイドイン・ホンコンと表記してあるのを見てガックリする。
 8時、ようやくポンピドゥーセンターへ到着。今日開いている美術館はここだけだ。広場で中国系の若者たちが剣劇を演じている。そこらじゅうに大道芸人がいるのに、その剣劇だけ、黒山の人だかりだ。観光旅行の資金稼ぎだろうが、ぼくたち東洋人から見たら、ヘタくそで見てられない。オリエンタリズムへの盲目的な好奇心がパリの人々に心底染み込んでいるのだ。築山は「オレたちも何かやったら儲かるぞ」と笑う。
 ポンピドゥーセンターはやけに殺伐としている。廃屋の雰囲気さえ。現代美術館に回す予算まで手が回らないのか。窓から射し込む強烈な西陽がピカソの絵に直接当たって、保存に良くない。クロークの女も愛想悪い。
 館から出ると、ようやく夜のとばりが降りていた。屋台のアイスクリームを買って、広場の端で休む。これからバスティーユ広場へ行ってみようという話になった。バスティーユで今夜大規模なダンス大会があるのだ。マレ地区の小路をくねくねと行く。やはりぞろぞろバスティーユに向かう人の流れがまるで京都の祇園宵山のようで可笑しい。
 10時過ぎ、バスティーユに到着。広場の革命記念塔が白く夜空に浮き上がって、そのかなり高い危険な所まで群衆が登って大騒ぎするのが見えてきた。祭りの音楽が流れてくるが、大混雑のためステージは見えない。踊りだす陽気な連中もいる。足元で爆竹が鳴り続けるのもお構いなし、ぼくは缶ビールを呑みながらバンドの演奏に合わせて歌いだした。
 夜11時過ぎ、喧騒を離れて戻り、ノートルダムでカフェに入る。築山が「今夜は地下鉄が終夜運転だからゆっくり帰ろう」というので、東京での日常生活の話などしながらビールとワインを呑む。サントノレで遭遇したばかりの夕方と打って変わって、築山はだいぶハイな気分になってきたとみえて、よく喋る。よしあし。……
 地下鉄が終夜運転というのは、築山の勘違いだったと判明した。サンミシェルから乗った地下鉄だったが、アンバリッドのあたりで終電を下ろされてしまったのだ。電車内のアナウンスではどうも、革命際に伴う臨時措置なので、ここからはトロカデロまで遠回りでもしてくれと云っているらしい。<らしい>というのは、われわれが仏語を解せないので、「トロカデロ、トロカデロ」と繰り返す声しか聞き取れないということである。
 そんなわけでとにかく、トロカデロまで歩きに歩いた。「真夜中のパリを酔っ払って歩き回る日本人というのも俺たちだけだな」などと気楽なものだ。エッフェル塔の真下では、爆竹をさんざん投げつけられる。騒いでいるのは出稼ぎのアフリカ人ばかりのようだ。硝煙が一面に立ち籠めるなか、やっとトロカデロ駅にたどり着く。
 もう1時を過ぎていた。ところが、である。駅の入り口は無情にも閉まっていたのだ。われわれは途方に暮れた。もう新宿で終電後まで呑んでいるのと変わらない状況。タクシーはやってこない。ときおりやって来る空車は客と相乗り交渉して走り出す。仏語で交渉できないわれわれは、指をくわえて見てるしかない。2時過ぎ、「こうしていてもしょうがない。ホテルまで歩こうか」と、郊外に近いビヤンクールまでとぼとぼ歩きだす。ホテル着は3時半。