拡散する森―村上春樹『ノルウェイの森』を空中遊泳する

詩誌「なだぐれあ」第2号(1988年2月発行)所収

拡散する森
――村上春樹『ノルウェイの森』を上空遊泳する

≪たとえば、誰かを説得するとき、私が「真理」、あるいは抗いようのない論理でそうすることができる場合と、そうでない場合がある。具体的にいえば、後者は恋愛においてである≫
 右の一文は『探求』(柄谷行人著)のなかで、他者の他者性とも呼ぶべきものについて言及された箇所からの抜書きである。柄谷行人によれば、ある共同の規則を前提にして自分の前に現れた他者は、真の意味での他者ではない。共同の規則を前提にした一対一の関係はそのまま自分自身との関係(自己意識)にひとしいものでしかないからである。真の他者とは「共同の規則なるものの危うさが露出する場所」に出現する存在のことである。そこでは自分と他者は互いに相異なる言語ゲームに属している。そして恋愛が成立するのは、まさにその場所である――。

 三浦雅士が『ノルウェイの森』(村上春樹著)について評した一文(「新潮」昭和62年11月号)で使っている他者概念も、柄谷の言う意味での他者にほかならない。三浦は、『ノルウェイの森』が「自閉症」的な作品で、どこにも「他者が描かれていないことに反発を感じる」と批判する文脈のなかでこの語を使っているのだが、彼はこの批評の対象になりにくい小説を前にして、かなり戸惑ってもいるようだ。途中、批評の軸を少しズラして、好意的に読もうとし始める。
≪だが、他者の希薄さは、逆に他者の登場を強調するための仕掛けとは考えられないだろうか。この小説は、他者が、すなわち現実が登場するにいたるまでの物語ではないだろうか。作品の全体を覆う現実感の希薄さは、主人公がまさにそこから脱したことを告げるためにこそ描かれていたのではないだうか≫
 三浦雅士によれば、この小説中唯一、作品としてのリアリティを感じることができるのは、結末で主人公(ワタナベ君)が恋人(直子)の自殺にショックを受け1月間の放浪の旅をしてきたあと、もう一人の恋人(緑)に電話をかけるくだりだとのことである。主人公が「何もかもを君と二人で最初から始めたい」と緑にプロポーズしたとき、受話器の向こうから「あなた、今どこにいるの?」という声が聞こえる。そのあとの一節。
≪僕は受話器を持ったまま顔をあげ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?……≫
 しかし、本当にそうなのだろうか。『主体の変容』で、あれほど見事な村上春樹論を展開してみせてくれた批評家が、『ノルウェイの森』を書評するに及んで、またなぜ冒頭から「はじめに感じたのはかすかな反発だった」などと書き始めてしまうのか、こちらのほうこそ戸惑ってしまうのだが、ともあれ、三浦のように、他者性という概念を登場人物たちの関係のなかにのみ探ろうとする方法が、果たして『ノルウェイの森』でどこまでも実効を持つのか、私は疑問だと言わざるをえない。このやりかたではどんどん作品の実質からズレていってしまうだけではないだろうか。この小説に描かれた他者性とは、もっと違う場所に探られなければならない性質のものではないか。そんな気がするのである。
 少なくとも私の眼には、今後も折に触れさまざまな村上春樹論のなかで引き合いに出されるかもしれないこの興味深い結末の一節が、三浦雅士とはまったく違ったものに見えてならない。だが、そのことは後で触れるとして、この作品の抱える他者性とでもいうものをもう少し検討してみたい。
『ノルウェイの森』の作品世界に他者性が欠落しているとすればまず、なぜ欠落しているか、をこそ問わなければならないだろう。たぶんそれは、村上春樹という作家にとって、「小説」自体が他者だからにほかならない。他者性のない他者との関係は自己意識にひとしいという柄谷のひそみに倣っていえば、それと逆に、もし自分の周りを他者性によって埋め尽くされ、他者性をすべての関係のなかに否応なしに見てしまう感受性というものがあるとしたら、その感性は自己意識(表現意識)までをも疎外の対象(他者性)としてとらえざるをえない運命にある。つまり分裂し、拡散する意識の乱反射を抱えこまざるをえない感性。それが村上春樹なのだ。彼ははじめから表現を断念して書き始めている。小説から隔絶された場所で、自分から隔絶された自分を表現するという離れ業を演じてみせるのだ。
 表現に向きあおうとすると、そこに表現すべき自己はない。疎外された自己に向きあおうとすると、今度は表現自体が疎外された相貌をあらわにする。だからその意識の先端は海底探査のマジックハンドになって、「表現」を断念して「作品」のほうへ反れていく。作品に作品自らを表現させる自分から疎外された自己を、疎外された表現のうえになぞるというアクロバットを狙いにいく。
 こういう事情のなかから造形された主人公の像が奇妙なハードボイルドムードを帯びてしまうのは、当然といえば当然である。登場人物相互の関係から切迫したものが少しも出てこない、あるいは主人公の言動が妙に没主体的で、どんな場面でも相手からの働きかけを無批判に受け入れてしまう(例えば、「なるほど」「そういうものだ」「やれやれ」等の多用)という村上春樹体質への批判もそのせいで出てくる。
 しかし、そのハードボイルドスタイルがいわゆるハードボイルド・ミステリーのそれを踏襲したものであるかぎり、そこには不可避的に主人公の内面の葛藤という問題を呼び込んでしまうはずである。ところが、『ノルウェイの森』の作者の場合は、先に言ったような事情から主人公の内面の葛藤以前に、主人公と作者のあいだの葛藤という事態を呼び込んでしまうのである。作品の内部、登場人物たちの関係のなかに他者性を探るのではなく、もっと違う場所に探らねばならない、と先に述べた理由はここにある。つまり、この小説の場合、他者は作品世界のなかでなく、その外部に、作者と作品世界との分裂という関係のなかに立ち現れるというべきなのだ。もちろん、ここにこそ疎外のリアルな肌ざわりが見えてしまう。
 まず、一つ例を挙げよう。精神を病む恋人(直子)を山の療養所に訪ねていく場面がある。ワタナベ君は『魔の山』(トーマス・マン)の本を所持していて、直子の世話をしているレイ子さんにたしなめられてしまう。
≪「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレイ子さんはあきれたように言ったが、まあいわれてみればそのとおりだった。≫
 この無神経さは、どちらの側のものなのだろうか。ワタナベ君のか、それとも作者のか。作者と主人公の合意のうえでのことではないだろう。軽率なことをしたのはどちらかなのだ。私にはナイーブな性格設定のワタナベ君の仕業だとは思えない。無意識のうちに『魔の山』を持ち出してしまったのは作者のほうに違いないのだ。「山の療養所」という素朴なイメージが作者に『魔の山』を連想させ、ワタナベ君に内緒でそれを持ち出させてしまったのだ。
 主人公と作者のあいだのこういう足並みの乱れは、他にも挙げることができる。ストが解除されたあと、授業に出てきた「ヘルメット学生」に対して嫌悪を抱く一節。
≪僕は彼らのところに行って、どうしてストをつづけないで講義に出てくるのか、と訊いてみた。(略)こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ≫
 この一節ではもやはり、「彼らのところ」にわざわざ出掛けて行ったのが、ワタナベ君でなくて作者であるような雰囲気がある。ハードボイルドなワタナベ君がこんな言動をするはずがないのだ。むしろ、「おい、春樹。よせよせ。相手にするな」ぐらいは忠告したかもしれない。
 そして例の、三浦雅士の取り上げた最後の一節。「僕はいまどこにいるのだ?」についても同じことが言えるのである。なぜなら、長い放浪の果てに緑という女性の価値を発見できたワタナベ君のセリフにしては、ひどく不自然な印象を受けてしまうからなのだ。これはフィニッシュをトラッドにきめてみたいというノリのなかで思わず口をついて出た作者の肉声としか聞こえない。ここで作者とワタナベ君は、明らかに他者性に覆われた他者同士として向かいあっている。

 ここで、『ノルウェイの森』に描かれたいくつかのセックスに眼を転じてみよう。
『1973年のピンボール』では、主人公のセックスの相手として、双子の姉妹が役割を務めていた。コピーセックスである。これは相手の像が分裂している、あるいは拡散していることの比喩として見たい。また、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』には、自己の像の分裂あるいは拡散という主題が、物語の二重構造と意識の象徴化という複雑な手法で語られていた。この前作中、シャフリング計画で脳手術を受けた主人公は、第三の思考回路(他者)を埋め込まれて分裂あるいは拡散してしまう(そこでは、主人公が図書館勤めの女の子を前に勃起不全に陥ったエピソードが重要な意味を持つ)。相手の像の拡散と、自己の像の拡散。そしてこれら前作の後にやって来たものはいったい何であるのか。それは明らかに、生自体の分裂と拡散というモチーフである。
≪さて、この小説の中には、何かしら不可解な、そぐわないものが存在します。それはセックスです。これまで村上春樹の小説の中では「性交」という2文字でしか表されなかったセックス、まるでシーズンごとの衣替えのように何気なく描かれていたセックスが、『ノルウェイの森』に到っては、ギクシャクと、その理不尽さをハンガーに吊るしたみたいに描かれているのです。≫(高橋丁未子・「コスモポリタン」1月20日号所収)
 高橋丁未子がここで、「そぐわない」あるいは「理不尽」という言葉で指しているのは、この小説におけるセックスの歪み方のことだろう。たとえば、美少女(ゴクミよりナンノを想像せよ)とレイ子さんとのレズビアン、直子や緑に手伝ってもらうワタナベ君の手淫、永沢さんとつるんでのナンパのかずかず。そして、ワタナベ君の性意識を描いて、その内面を最もうまく摘出した、このマスターベーション場面。
≪僕はある夜、約束を果たすために緑のことを考えながらマスターベーションをしてみたのだったがどうもうまくいかなかった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子のイメージも今回はあまり助けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。≫
 ここでの、「勃起不全」とイメージの「切りかえ」。これは、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』におけるジャンクションA、Bの「切りかえ」問題につながっている(もっとも、この話をすると、私の周囲の熱狂的なムラカミアン達はいちように首をかしげるのだが、前作と『ノルウェイの森』との接点を確かにこの一節は提示している)。
 しかし、最大の「理不尽」さは何と言っても、直子がバルトリン腺液の出ない病気にかかっているという設定にあるのだ。他者を受け入れることのできない病気である。『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』で主人公に訪れた勃起不全あるいは先に引例したワタナベ君のそれと、ここでの直子の不感症とがパラレルの関係にあることはもちろん言うまでもない。
 直子は他者を見ている。自己のなかに、そしてワタナベ君やキズキのなかに他者性を見て震えている。直子の視界にあるのは、自己の分裂と拡散、ワタナベ君やキズキの像の分裂と拡散の姿だけである。像が分裂し、拡散するとき、意識は無限の合わせ鏡になる。二枚の鏡に挟み撃ちされた自己はそのとき、意識と感覚の回路を分断されて、不感症というバリアーのなかで自己を保護しようと必死にこらえるのだ。
 「濡れない」直子は、ワタナベ君を手淫によって導いてあげようとする。『ピンボール』で相手の像の分裂を、『世界の終り』で自己の像の分裂を描いた作者の眼はここで、相手と自己とのあいだの性そのものの分裂あるいは拡散へと向けられているのだ。最も本来的なツールである性器から、最も非本来的なツールである手へと、セックスの像が横ざまにスライドしてゆく。その動線が表すものは、その像が分裂、拡散していく有り様にほかならない。
≪「ねえ、直子」と僕は言った。
「なあに?」
「やってほしい」
「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のズボンのジッパーを外し、固くなったペニスを手で握った。
「あたたかい」と直子は言った。
 直子が手を動かそうとするのを僕は止めて、彼女のブラウスのボタンを外し、背中に手をまわしてブラジャーのホックを外した。そしてやわらかいピンク色の乳房にそっと唇をつけた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。
「なかなかうまいじゃない」
「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。≫
 この場面には、直子とワタナベ君のてんでに孤立した、しかも相手に届きたいという引き裂かれた心の哀感が見事に描き出されていて、これはもう80年代小説における性描写の白眉なのだ。ハクビ着物教室! この興奮を私は、『カップルズ』(アップダイク)における、あのめくるめくスワッピングシーン以来絶えて知らなかった。
 それはともかく、この手淫という代替行為には、実は重大なパラドックスが潜んでもいるのだ。それは、その行為が暫定的(?)に相手を受け入れる役割を果たすのと裏腹に、また決定的に通路を遮断する門扉の役割をも果たすというパラドックスである。高橋丁未子が垣間見た「理不尽」さの正体は、このパラドックスからくる救いのなさにほかならない。
 そして、このパラドックスは村上春樹という表現者の抱えるパラドックスでもある、と言ったら飛躍しすぎだろうか。先に述べた村上の表現、作品に作品自身を語らせようというアクロバットのなかに、表現という疎外態を前にしての自己の分裂・拡散からの保護という役目を果たさせると同時に、分裂の一層の促進という契機を呼び込んでもいる、というパラドックスを私は見てしまうのだ。
≪登場人物たちが、熱心に克明にセックスの話をすればするほど、その実態はどんどん希薄になっていきます。これはそのまま、現在の性の状況なのだと思います≫(高橋丁未子・同)
 この小説では、登場人物たちの生活が丁寧な筆致で描かれている。そしてそのうちの何人かのあっけない死が描かれる。これらの生や死につきまとう実態の無さと、右の引用で示されたセックスの希薄さとは、ある同じものの表と裏を言ったにすぎない。言葉と性と死がここでは、「その理不尽さをハンガーに吊るしたみたいに」分裂と拡散の森のなかであてなく漂っている。