(旧著再見)太平洋ひとりぼっち

詩誌「なだぐれあ」4号(1989年2月発行)所収

(旧著再見)太平洋ひとりぼっち

<……少年は突然、≪自分の好きなのは≫それは≪地理だ≫と、言った。私は、この好尚のうちに放浪的な本能のひそんでいるのを見てとった。……>(アンドレ・ジッド『贋金つくり』より)

 中学時代、少年テツオオは地理部に入っていた。地理部を選んだのは、部活の嫌いな数人だけが所属している休部同然の部だったからだ。放浪癖があったとも思えない。
 でも、『贋金つくり』の主人公エドゥアールがもし、少年テツオオが「自分のいちばん好きな本は、それは『太平洋ひとりぼっち』だ。繰り返し繰り返し何度も読んでいるんだ」と言うのを聞いたなら、そこにはどんな性癖が潜んでいると見てとるだろうか。
 中学の一時期、テツオオは本当に飽きもせず、寝床のなかでほとんど毎晩、『太平洋ひとりぼっち』を読み耽ったものだった。この本は航海日誌ふうに綴られているので、いつ、どこからでも入っていける。敬虔なクリスチャンが一日の労働を終えて『聖書』を読む
読み方みたいなものだった。
 山形の山奥で育ったテツオオが初めて海を見たのは、東京に転校してきたばかりの小学5年、遠足で九十九里浜に行ったときのことだった。海のない国に生きたカフカの発想には潜在的な海への憧れがあったという。テツオオも海への憧れのような気分で堀江謙一のあの本を読み続けたのだろうか。おりからワイルドワンズやランチャーズなど、湘南サウンド全盛の時期。加山雄三が大好きだった。
 あるいはそういう憧れは一種の脱出願望のような気分に裏打ちされていたのかもしれない。アメ横奥の御徒町のガード下や下町の棟割長屋で、せせこましく暮らしていた少年テツオオには、『太平洋ひとりぼっち』の世界は荒唐無稽でもなんでもない、そのつもりになればいつかは自分でも叶えられる夢の物語としてあったのだ。堀江謙一はたったの10歳上であるにすぎなかった。
 初めてこの本が出たとき、<太平洋>という開放的なイメージと<ひとりぼっち>という情緒的なイメージの結合になるタイトルが奇異な印象を抱かせたものだが、読み返すうちに、<太平洋>と<ひとりぼっち>がやはり、結合していないとその夢を結んでくれないということにもテツオオは気づいた。<太平洋>と<ひとりぼっち>という、およそ関係のなさそうな二語の間に<自由>という橋が架けてあることが解かったのだった。

 ぼくは久しぶりに少年テツオオに会いたくなって、ある日広尾の中央図書館に出掛け、『太平洋ひとりぼっち』を24年ぶりに手にとってみた。中学の終わりの頃の埼玉への引っ越し騒ぎのなかでこの本を紛失してしまっていたので、長い間手にする機会がなかったのである。幼なじみと24年ぶりに再会する興奮を抑えながら、貸出カウンターで他人の手垢にまみれた本を受け取った。
 1ページ目にマーメイド号のデッキに立つ、懐かしい堀江謙一の笑顔があった。作業着ふうのジャンパーにジーパン、ゴム草履という格好をテツオオはよく真似したものだった。それが堀江謙一の真似だとは誰も気付かない、そのことが密かに誇らしかった。……

(マーメイド号と堀江謙一の写真添付)

 本文は、前半が太平洋単独横断の計画を実行に移すまでの準備生活、後半が航海日誌を基にしたその全航海と、2つの物語から構成されている。『忠臣蔵』でも『荒野の七人』
でも『大脱走』でも『史上最大の作戦』でもなんでもそうだが、本当に面白いストーリーというものはすべて<準備>と<実行>、あるいは<蓄積>と<蕩尽>という2つの物語から構成されている。そして、その2つの要素が等分の比重を分けあって均衡を保つとき。『太平洋ひとりぼっち』の面白さもそれなのだ。
 しかし少年テツオオが惹かれていたのは、そこだけではなかった。<準備>の前半と<実行>の後半の間に、10ページにもわたって記されたマーメイド号搭載品目録の部分がある。測量器具から食料品、衣料、雑貨類、ヨット備品、愛読書まで、キャビンに積み込んだ全品物の名前がびっしりと並ぶその10ページが、なぜか好きだったのだ。『白鯨』でいえば、冒頭にえんえんと続くクジラについての生物学的解説文がそうであるように、人によっては退屈なだけのはずである搭載品目録などというものになぜ惹かれたのか。『白鯨』の場合は、海洋生活の単調さを読者に実感させる意味でそのページが必要だったのだ、などという珍解釈もあるようだが、テツオオの場合はどうだったろう。これもエドゥアールに訊いてみたいところではある。
 テツオオが初めて『太平洋ひとりぼっち』を読み終えたときの読書ノートがある。なにか一冊読むたびに国語のS先生に提出しなければならなかったノートである。ひどい字で稚拙な表現ながら、物語に興奮したさまがよく出ていると思われる(?)ので、そのコピーをここにご披露してしまおう。

(読書ノートの抜粋を添付)

 これを読んだS先生は「夏の暑いときにゴロッとなってこういう本を読んだっていうのは羨ましいね」と云って返してくれた。「ただ、こういうものばかりでなく、もっと内容のある文学作品も読みなさい」だと。いまテツオオの読書ノートを開くと、確かに伝記物、少年向推理小説、ノンフィクション物が好きだったようであるが、文学的なものなどほとんど読んでいない(それらしいのは『ビルマの竪琴』だけ)。嫌いだったのだろう。S先生の言葉にも反発を感じたにちがいない。そのテツオオがその後数年して、文学にそれなりの興味を示しはじめるのは、S先生の言葉がどんなふうにその心傾に作用していたからなのか。……
 『太平洋ひとりぼっち』を24年ぶりに読み返してみた印象は、基本的には24年前に記した、あのたどたどしい読後感と全く変わらない。こういう経験をするとき、本当は歴史などというものは存在しないのだと実感できる。毎年正月に、新鮮な気分でドストエフスキーを読み返すのを習慣にしているという大江健三郎にこういう読書も勧めてみたい。
 それはともかく、あのとき、S先生が小林秀雄のこんなエッセイを読んでいたら、あんなことを少年テツオオに云ったりしなかったのではないかとも思うのである。権威には権威を!
<今日の世代を表現した代表的文学は何かと問はれても返答はむつかしいが、今日の青年文学なら、直ちに挙げることが出来る。堀江謙一「太平洋ひとりぼつち」である。今日のやうに、文学が勝手放題な主張をしている時、かういうものが、果して文学と呼べるかどうかというやうな事を、考へたところで有害無益である。(略)私はこの本を三十七年度の文学的一事件だと思つてゐる。>(「青年と老年」より)