助川助三は太宰治である――『無能の人』(つげ義春)書評

「点燈舎通信」7号(1992年5月発行)所収

助川助三は太宰治である
 ――『無能の人』(つげ義春)書評

 連作『無能の人』は6つの小話から成る。まず、巻頭1コマ目を不気味に飾る怪鳥のシルエットに注意しなければならない。この鳥が巻頭を飾るのは、唐突でもなんでもない。これは第3話の「鳥師」の中からここに飛んできた、ひとつの象徴としての鳥なのだ。「鳥師」までの道案内役として、わざわざ巻頭まで、読者を迎えにやってきてくれたのである。

(挿画=鳥の絵=略)

 これはつまり、助川助三の貧乏生活を点綴することが、作者つげ義春の第一の眼目ではないことを意味する。
「石屋シリーズ」の時代背景は、昭和30年代くらいであるらしい。だから、主人公助川助三のような家庭生活が現在の日本社会に現実的に成り立つかどうか、恣意的な倫理意識でもってそれを問うても意味はない。また、彼の貧乏生活にノスタルジーを感じたり、嫌悪や苛立ちを感じたりという情動も、作者の企図する幻惑的な心理操作効果以上のものではないということを確認しておかねばならない。
 その構成は、実はかなり主知的に巧まれている。たとえば、主人公助川助三の顔を見てみよう。彼の顔に見覚えはないだろうか。どこかで見たことがあるはずだ。そう、口髭などたくわえて、何くわぬ顔をしているが、これは紛れもなく、あの太宰治の顔なのである。助川という存在はたぶん、太宰の『人間失格』の世界からやってきたのだ。つげ的な<無能>と太宰的な<人間失格>との間には、どこかしらシノニムの響きが感じられないだろうか。

(挿画2コマ=2人の顔=略)

 だから私たちは、『人間失格』の主人公大庭葉蔵の声に耳を傾けてみることから始めるのがいいだろう。
「日蔭者、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していふ言葉のやうですが、自分は、自分を生まれた時からの日蔭者のやうなきがしてゐて、世間から、あれは日蔭者だと指差されてゐる程のひとと逢ふと、自分は、必ず、優しい心になるのです」(同)

「石屋シリーズ」に登場するあらゆる人物も、いわば<日蔭者>ばかりではないか。助川助三は人に対して優しく、また無防備に生きる。大庭葉蔵の職業が、助川助三と同じ漫画家だという点も、不思議な符号である。
「漫画家。ああ、しかし、自分は、大きな歓楽も、また、大きな悲哀もない無名の漫画家」(同)

 もちろん、両作には、それぞれの作者の資質の違い、作品題材上の差異、主人公の個性の隔たりなど、異なる点のほうが大きいといえば言える。しかし、両作品における表出の無意識のレベルでは、共通点のほうがそんな差異を遥かに圧倒しているのである。

「自分の人間恐怖は、それ以前にまさるとも劣らぬくらゐ烈しく胸の底で蠕動してゐましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て……」(同)

 大庭葉蔵の関係的実生活を規定する<演技>への傾斜は、人間恐怖という深い心の傷を母胎として生まれ、その恐怖の増大がさらに<演技>の堕地獄へと彼を駆り立ててゆく。

 ここで私たちは、『無能の人』における次の場面を想起しなければならない。
<表現>と<実生活>という永遠のテーマに、作品はここでもっとも深く切れ込んでいる。中古カメラ・鳥・銘石へと次々に移る助川助三のヤマ師的好奇心の中に、私はフェティシズムの変種を見てしまうのだが、その心理回路の奥には、たぶん彼の関係意識の歪みのようなものが隠されているはずだ。他者への不安、そして自己への不安。彼の妻はそのことを喝破し、漫画業からの無意識的な彼の逃避を、一言の下に<真似>と断罪するのである。大庭葉蔵の<演技>と同じ心理がここにある。

(挿画5コマ=妻のセリフ「私に苦労ばかりかけて私もう耐えられないよう」「私には分ってんのよカメラ屋だって古物屋だってあんた本気でやんなかったじゃないの」「わざとこんな真似してるだけじゃない」「なんでなんでこんな真似するのよ」「あんたにはマンガしかないのよ」の場面=略)

 大庭葉蔵の<演技>、助川助三の<真似>、そのどちらも、虚構という点で共通している。生活自体を虚構でもって成立させるところには、倫理的な負い目が巣食う。助川助三はその負い目に対して、あまりに軽い。だが、大庭葉蔵と助川助三の資質上の違いは、一方がその負い目に対して自意識過剰であり、他方は自意識によって機制をかけているという点だけにすぎない。
 その仔細は、彼らが表現者としての問題を抱えているために、さらに屈折した回路で彼らを苦しめる。表現における無能の意識と、実生活上の無能意識とが、ひとりの表現者のなかに合わせ鏡のように張りついたとき、さらに深刻な<恥と罪>が心に巣食うのである。

「忘れかけると、怪鳥が羽ばたいてやって来て、記憶の傷口をその嘴で突き破ります。たちまち過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開せられ、わあっと叫びたいほどの恐怖で、座ってをられなくなるのです。」(同)

 だからもしかすると、巻頭の怪鳥も、太宰の『人間失格』の中から飛んできた鳥だったのかもしれないのだ。ともあれ、助川助三の心に<過去の恥と罪の記憶>があるために、この『無能の人』が単なる<石屋シリーズ>の環を閉じるだけの連作にならないで済む契機が訪れた。つまり、助川助三が<恥と罪>の生活を救済しようとするための支点として、ここに「鳥師」という異色挿話の誕生が可能になったのである。
 そしてそれは、第6話の「蒸発」へと繋がってゆく。その意味でも、「鳥師」は石屋シリーズとまったく異質な挿話なのだ。そこでは、助三の位置が背景の奥に退いてしまい、いわば彼はそこで、密かな心理的存在みたいな意味しか付与されていない。
「鳥師」にみられる表出の根底に<恥と罪>のオブセッションを見てしまうとき、『無能の人』と『人間失格』との距離は、もっとも接近する。つまりそこには、あの『人間失格』の抱える大きなテーマ、<人間恐怖>という問題が、<恥と罪の記憶>を生み出す魔力として裏打ちされているのだ。しかも、その<恐怖>は<恥と罪>のレベルを突き抜けて、次のような屈折した心理へと転位してしまう。

「あまりに人間を恐怖してゐる人たちは、かへって、もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの目で見たいと願望するに至る心理」(同)

 そんな心理を担うかのように登場する黒マントの鳥師は、冒頭の怪鳥と同様、シルエットだけの存在である。この得体の知れない男は、存在証明の具としてのどんな顔ももち合わせない。彼に必要なのは、<おそろしい妖怪>を自分の目で見ようとする、狂おしい行為だけである。だから最後に、彼はその行為に向けて踊りだす。

(挿画=鳥師、飛翔の俯瞰図=略)

 彼の踊りだした先に、「蒸発」の世界が展開される。そこで古本商・山井二郎という人物は、既に妖怪を見るための眼を失った存在として描かれている。妖怪を見てしまった蒸発者に、もう目はいらない。彼自身が妖怪そのものになってしまったのだから。これをミイラ取りがミイラになったという。ともあれ、彼の言葉に耳を傾けよう。

(挿画=2コマ「まあ私はほんの一時的にこっちに」「この世に来ているだけですから」=略)

 こういう宗教的な境地に、私たちの感受性はコロッとなりやすい。山井の死生観には、容喙の余地さえ無いように見える。時間とは前方に収束してゆくものだ、と言ったのはハイデガーだ。
 山井の言葉は、ついに助川助三の俗物感性によっては理解されることはないだろう。それほど両者の間には、生への姿勢において千里の径庭があるように設定されている。もちろん、作者が山井の死生観のほうに、至上性を見ていることは言うまでもない。
 しかし、やはり腑に落ちないのだ。<蒸発>→無用者→無垢……という山井の日常否定論理は、<無能>→貧乏→ラク……という助川助三の日常論理とどう区別されるのか、という点である。この二つが、生活というコインの表と裏の関係でしかないことは、むかし安部公房が『燃えつきた地図』の中などで、とっくに証明済みの事柄なのである。
 私たちはその作者の意図にも拘わらず、「鳥師」と「蒸発」、さらには巻末の「乞食論」でも披瀝される作者つげ義春の死生観・救済観と、作品自らが自律的に語らざるをえなかった表出の実際<恥と罪の記憶>とのあいだに奇妙な齟齬を見てしまうのである。
 ヤマイという名は、<病い>に通じる。「いながらにしていない」という生き方も、つまりは無能者助川助三と同じ、<真似>の生き方でしかない。だから、従俗も反俗も、虚構という点では択ぶところが無いことになる。これは明らかな自家撞着ではないか。
 『人間失格』の大庭葉蔵は、苦悩に満ちた<演技>の半生を振り返った小説の最後で、こう述懐する。

「いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分がいままで阿鼻叫喚でいきてきた所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした」

 たぶん、『無能の人』が描く<真似>の世界においても、その奥に流れるのは、そんな空虚としての<真理>なのである。