遙かなる飛島

「月刊軟骨新聞」(2008年6月号)所収

遙かなる飛島(前)

 5月28日から6月10日まで、銀座ニコンサロンで宮本常一の写真展が開かれた。民俗学者のファインダーに捉えられた日本の風景は、プロの写真家たちのそれとはまるで趣きが違っていて面白い。今回の写真は昭和37年から39年までの3年間に、北海道から沖縄まで踏破した際のスナップ200枚だ。平成20年の現在、私たちは凄まじい情報量の洪水に溺死しかけているが、その情報の質量たるやどれもペラペラに希薄で嘘くさいものばかりではないか。しかるに、45年前に撮影された宮本の写真は、遠い昔に日本から姿を消してしまった被写体ばかりを収めるのだが、圧倒的な存在感で私たちの魂を揺さぶってくるのである。
 そしてそのなかに、ある1枚を発見したとき、私は言いえぬ感慨に捉えられ、しばしその作品の前で立ち尽くした。それは昭和38年8月23日に、山形県酒田市沖合の離島、飛島で写されたものである。「洗濯物」と題して、浜辺に佇む一軒家を写したその風景は、8年前に私がその島で見たものと少しも変わらぬものだった。45年の風雪に耐えて、その風景だけはたぶん現在まで生き残っているのだ。日本のなかで飛島だけはゆっくりとした時間が流れている。その写真の前で私は、いつしか記憶のなかの飛島へと思いを馳せていた……。

 平成12年9月15日金曜(敬老の日)昼下がり、酒田の空は快晴だった。東京での呑み友達のオサムさん、ヒロちゃんと3人でJR酒田駅で羽越線を下車すると、駅前からタクシーに乗った。駅前広場にはガングロギャルが大勢タムロしていた。東京・渋谷で見る連中とまったく同じ風体ながら、凄い訛りのコギャル言葉には、オヤジ3人の旅情をムックリと掻き立ててくるものがあった。しかし旅情にひたるヒマなんてない。1日1便しかないフェリーの乗り場に直行しなければならなかったのだ。
 1時間半の船旅は快適そのもの。300人乗りの大型フェリーは、不気味なうねりをモノともせずに疾駆する。巨大な波間にはトビウオとカモメたちの乱舞。秋空は高く澄み渡り、日本海の色はあくまでも蒼い。お彼岸の連休だというのに、観光客らしいのは私たち3人だけで、あとは地元の生活客がちらほらと無口に乗るばかりだった。さあ、思い切り羽を伸ばして、今夜は呑むぞー。
 無計画な旅ではあった。数日前、東京・六本木でこの3人で呑んでいるときに全国津々浦々の地酒の話で盛り上がり、私がやおら「地酒のうまい所に旅に出よう」と言い出したら、ヒロちゃんが「それなら東北ですね」、オサムさんが「東北なら飛島に行きたいな」と応じてこうなったのだ。飛島で1泊、翌日は肘折温泉あたりでもう1泊かな、ぐらいの大まかな方針だけ。人生の達人・小林秀雄を気取るオサムさんは「ガイドブック持参のチマチマ旅なんてやめような」と豪放磊落に言い放った。しかし、それがそもそもの始まりだったのだ。ガイドブック頼りの旅さえしていれば、なんの間違いもなかった……。まあ、話を先に進めよう。
 ともあれ、そんなわけで飛島港で下船すると、ガイドブックも観光地図も持たず、浜に沿って細長く伸びる漁村集落の奥へ奥へと歩いて行った。立ち並ぶ民宿の数は多かった。どこまで行っても民宿の看板、また看板。いい加減歩き疲れた頃、オサムさんが「どこも同じだな。ここにしようか」と、一軒のガラス引戸を開けた。「すみません、今晩泊めてくださあい」――いま思えば、テレビ「田舎に泊まろう」の先駆けだ。しいんとした奥から一人のお婆ちゃんがのんびりと出てきた。そして彼女は驚きの表情を見せた。その表情のイミは翌朝痛いほどよく判ったのだが、とにかく私たちはその民宿「みのり荘」に旅装を解くと、夕刻までのひとときを島内散策で過ごすことにした。
 飛島は島の周囲わずかに10キロ、2時間ほどのサイクリングで1周できてしまう。港には旅客ターミナルがあってちんまりした食堂と土産屋が入り、漁協もそこに事務所を構えている。ターミナル広場には<ご自由にご利用ください>との立て札が掲げられ、その周囲には中古自転車が所狭しと並んでいた。私たちはこの自転車でさっそく島内一周に出掛けたのだ。
 島は一面濃密な緑に溢れていた。いたるところ珍しいタブの森が繁茂し、その樹間まばらな所からは真っ青な日本海が見渡せて、さらにまばらな所からは海の彼方に鳥海山の姿が大きく望まれた。
 それにしても人影が見えない。人口200人、計100世帯。高齢者が多く、おまけにお彼岸なので今日は漁に出る人、野良仕事に出る人さえいないのだ。私たちは宿に戻ると、さっきのお婆さん(けい子さん、75歳)が不意のお客のために急ごしらえしてくれた山海料理に舌鼓を打った。トビウオ、カワハギ、イカ、アワビ。北国らしい濃い味つけが野趣たっぷりで……。おっと、ガイドブックじゃない。
 地酒は出羽桜と初孫しか置いていないという。初孫を出してもらい、けい子さんを話相手に、3人でよく呑んだ。客室は1人1室ずつ自由に使っていいと言われ、てんでに布団を敷いて好き勝手に寝床に入り、よく眠った。
 そして翌朝8時だった。まだ寝床にいるうちに、どこかに据えたスピーカーから「漁協からお知らせします」という大音量の声が、突然流れてきたのである。吹き渡る潮風に散らされながらその声は続く。「……波が高いため……今日は……欠航となります」
 私はガバッと跳ね起きて窓を開けた。快晴だ。波の高さなんて昨日と変わらないじゃないか。ええっ、どうなっているんだ、この島は?

遥かなる飛島(承前)

(注=この稿、脱稿に前後して「月刊軟骨新聞」休刊となったためここに初出)

 他の2人も飛び起きて窓の外に身を乗り出した。窓の下はデコボコアスファルトが左右に延びる島のメインストリート。その向こうには何隻ものイカ釣り漁船がもやってある波止場。そしてその先は海だ。東の空に鳥海山の稜線が朝陽のシルエットとなって大きく聳え立つ。きらめく波頭は平穏そのものだった。どこにも人影がない。3人ともそろって首をひねり、「とにかく漁協へ行ってみよう」となった。民宿の階下はしいんと静かで、けい子婆さんはまだ寝ている様子だった。
漁協の事務所はがらんとしていて、事務服を着たオヤジが一人いるだけ。さっきのスピーカーから流れた声の主だった。ソムリエ田崎真也に似た実直そうな顔。朝早い観光客3人の来訪に一瞬驚いた表情を浮かべた。
「おはようさんだっす。あやや、お客さん、ガイドブック読まねえで来たてかっす。まんず読んで来いちゃ。どのガイドブックさも、飛島の大型フェリーは9月の連休からオーバーホールでドック入りだて書いてたけべ。今日から古い小型フェリーさ交替したなよ。へば、海上保安庁のお達しで波の高さ2メートル以上だら小型フェリーは欠航すんべて言うなだわ。まあ、待ってけらっしゃい。大型フェリーは1週間しぇばまた戻ってくるさけよ……」
 われわれ3人とも、よろよろと気を失いそうになった。昨日のフェリーにわれわれ以外観光客の姿が無かったのも当たり前だったのだ。宿に戻るとけい子婆さんももう起きていて、われわれの顔を見るなり気の毒そうに慰めてくれた。「ふだんはこれぐらいの波だら小型フェリーだて欠航などしねちゃ。明日はきっと大丈夫だべ」それを聞いて気を取り直し、その日は3人で狭い全島の隅々まで見て回った。観光客は一人もいないことが分かった。われわれの存在は早速島民の間で話題にになっていたのかも。通りですれ違う老人が愉快そうに「島流しだの」と声を掛けて来た。けい子婆さんの話だと、中高年ばかりの島民の中に2人だけ女子中学生がいるという。その天女の姿を拝もうと、島に1校だけある中学校の周りを3人でうろついた。どこかにまだ動揺が残っていたのか、国民の祝日絡みで学校も休みだということすらすっかり忘れて……。
 そしてその翌朝、またその翌々朝と、漁協のスピーカーからフェリー欠航の知らせが流れてきた。さすがに3人とも暗澹としてきた。18日月曜日の朝、それでもそれぞれ何をさておき、ヒロちゃんと私はサラリーマンなので勤め先へ電話を入れた。しかるべく連絡さえしておけば、「しょうがないな」で済むので新たな気分でもう1日羽根を伸ばせるではないか。しかしフリーのグラフィックデザイナーであるオサムさんは多くの仕事関係へ了解を得るためにいろいろ電話していたが、仕事の肩代わりを頼む相手など簡単にみつかるようでもなかった。掛けまくる途中から「参ったな」を連発し始めたその背中には、「飛島で呑もう」「ガイドブック持参の旅なんてやめような」と言った言い出しっぺの後ろめたさが濃く滲む。それでも昼過ぎになってやっと仕事の算段がついたのか、「参ったな」を言わなくなり、顔色もふだんに戻った。3人そろって行動するプランもなくなって、この日はてんでに時間を潰し始めた。
 3人は若い頃からの草サッカーの仲間で、チーム合宿など泊まりがけのつき合いも長い。しかし旧友同士とは言え、こんな極限状況(?)の中で長時間ツラ突き合わせるのは初めてだ。軟禁生活でのそれぞれの時間の潰し方を観察するのはそれなりに面白かった。この日の午後はオサムさんの姿を見かけなくなった。あちこち探したら、宿のご近所の家へ上がり込んで漁網を繕うその家の老漁師と四方山話をしていた。ヒロちゃんはここまで3日間の汚れ物をこまめに洗濯して、後は読書で過ごしていた。そしてその日もどうにか静かに暮れ、3人で地酒「出羽桜」を空けてから翌朝への希望を胸に寝床に就いたのだった。
 しかし翌朝、またもや非情なスピーカー音が流れてきた。4日目ともなると、もう動じなくなっていた。大型フェリー復帰まであと3日の辛抱だ。この日もてんでの行動。オサムさんは知り合った漁師から釣り竿を借りて突堤の方へ出かけた。ヒロちゃんは浜辺に泳ぎに行った。私は島内をぶらぶらし、絵になる風景をスケッチしては漁協のファクスを借りて会社に送信して突然の休暇取得のお詫びに代えさせていただいた。誰もが自分に集中してさえいればすべてはうまく運ぶ、と確信するかのように……。そして昼すぎのことだった。けい子婆さんが階下から、オサムさんの奥さんから電話だと叫んだ。出掛けた本人の代わりに受話器を取った。「阿部です。オサムさん外出中ですが、何か…」そしたら突然受話器の中から罵声が響いた。「あんたたち、ホントバカね。大バカよ大バカ!」そしてガシャン! 唖然とした。なんで他人のカミサンからバカ呼ばわりされなきゃならんのだ。ひとの傷口に塩を摺り込むような……。この女は知る人ぞ知るソプラノ歌手である。オサムさんへの義理立てで、何度かコンサートにも足を運んだ。ステージから振りまくその笑顔は「どうよ、あたしほどのハバネラ歌手って見たことないでしょ」と周囲を睥睨するような雰囲気ぷんぷん。それが受話器の奥からまるで貧乏長屋のカカア丸出しの罵声を浴びせてきた。ハバネラどころか人の心にハバヨセしてくる無謀ドライバーみたいなもんだ。私は憤懣やるかたなく、釣り場に急いだ。
「オサムさん、奥さんから電話」「何だって?」「早く元気で帰ってきてって」
 彼は何も言わずに釣り糸の先を見つめ続けた。その横顔がニッとゆがんで、あの女がそんな殊勝なこと言うわけないだろ、と無言で呟いていた。