キトラ文庫通信『莢』12号(2018年12月発行)所収
『断腸亭日乗』と詩人・築山登美夫
7、8年前に一念発起して永井荷風の『断腸亭日乗』を通読した。大正6年の書き出しから、日々の記述を嘗めるように味わってゆくうち、昭和23年の段になってこんな一文が目に飛び込んできた。「1月16日。晴。岩波書店玉居氏來話。濹東奇譚縮刷本持参」。私は「あっ、これか」と驚き、いつしか本を伏せて、わが青春のある時期の遥かな思い出に自己を没入させていた…。ここに出てくる「玉居氏」とは、昭和49年、私が大学卒業前の一時期にその研究室に入り浸っていた文学部非常勤講師の玉井乾介氏のことだったからである。その数年前に岩波書店を定年退社した玉井氏は講師として着任するや、学内の氏の研究室をグータラ学生たちのために溜まり場として開放してくれた。勤務日は氏自身もそこに身を置きつつ、学生たちの誰彼となくダベりながら時間を過ごすのを楽しみにしている様子だった。
ある日、氏が私と二人きりのとき、「君は何を勉強しているんだい」と訊くので、「現代小説全般です」と返事すると、「僕は昔、永井荷風と会ったことがあるんだよ。あの人は話しが面白かった。面白い爺さんだったねえ」と、そのエピソードをあれこれと話してくれたことがあった。晩年の荷風は気難しい人で、市川の自宅を来訪した編集者などと打ち解けた歓談をすることなどはあまりなかったらしい。どこかで待ち伏せしていた寺田透の名刺を本人の目の前で破り捨てたエピソードなどは有名である。私にとっては、そんな荷風からわび住まいで歓待された玉井氏こそが誰よりも「面白い爺さん」だったのだが、『断腸亭日乗』の右の一文が目に飛び込んできた瞬間、いみじくも脳裏に浮かんだのは玉井研究室でのその日のことだったのだ。
またこれと大きく関係したことだが、同じこの時期、夏休み明けの9月のまだ暑気の収まらない後期授業開始の日のことも忘れられない思い出として私の胸裏に刻み込まれている。それは…。授業料納付のため多くの学生が一斉に登校するこの日、私は校舎前のスロープを登ってくる同級生の築山登美夫と久しぶりに遭遇したのだった。これから学部事務所に行くという彼に、最近知った玉井研究室の楽しさを伝え、「あとで来いよ」と、一足先にそこに向かった。ほどなくしてやってきた築山を玉井氏に紹介し、数人の他の学生たちと一緒に就活の近況などを語り合った。築山が「いま講談社の筆記試験を通って、次は面接が控えている」と声を弾ませると、玉井氏は「講談社の役員に友達がいる。推薦状を書いてあげるよ。明日わが家に取りに来なさい」と言った。するとその夜、築山が私に電話してきた。「玉井さんとは初対面だから、何を話していいかわからない。明日つきあってくれよ」。
翌日午後、築山と高田馬場の喫茶「アイン」で待ち合わせ、大久保にある玉井氏邸に向かった。日頃はラフなジーンズ姿だった彼が、糊のきいた白シャツと黒ズボンのリクルートルックで少し緊張気味に隣を歩くのは、何か噴き出したくなる図だった。それにしても、詩人を目指す彼が出版社を受けたのには少し驚いた。将来創作を続けるつもりなら出版編集の仕事だけは避けるべきだと、私のほうは自分の就活リストから一切の出版社を除外していたからだった…。
玉井氏邸は高い石塀の内側に武蔵野の面影を残す樹木が鬱蒼と繁る、敷地面積200坪の豪邸だった。岩波書店で雑誌「世界」の編集長をしていた時代の名残だろう、10人もの訪客がゆったり座れる大応接室に招じ入れられると、卓上には既にしたためられた推薦状の白封筒が置いてあり、築山の左に私、私の前に玉井氏、その右にはコーヒーを淹れてくれた奥様が掛けて、しばし歓談に花を咲かせた。私が庭の樹木群の立派さを愛でると、氏は「あれはクヌギだよ。昔、ここいら武蔵野はクヌギ林が多かったらしい。うちのもその名残だろう。国木田独歩のクニキダというのは実はクヌギダから来た苗字だろうと思うね。そのうち調べてみるつもりだ」などと披瀝してくれた話しが印象に残っている。しかしその席では、一人築山だけが借りてきた猫のように寡黙に鎮座していた。そんな彼を横目に見ながら、やはりこんな面接オンチには氏の推薦状は何よりの助け舟に違いないと苦笑せざるを得なかった…。
しかしそれから37年が経った、平成23年の師走のある日のことだった。友人たちが西日暮里の「酒処一合」に集まり、忘年会を兼ねて築山の『詩的クロノス』刊行パーティーを内々で開いた。宴もたけなわのころ私は、隣席の彼を相手にオダを上げて、「いつか築山論を書くよ。書き出しは『断腸亭日乗』の玉井さんについてのあの1行の引用からだ。玉井さんのせいで君の人生がこんなふうに決まっちゃったんだものな」と戯れ言を言ったのだった。するとその言葉にカチンと来たらしい築山は怒気を含んだ声で、「はっきり言うけど、君と一緒に玉井さんのお宅に行ったなんて覚えは一切ないから」と言い返してきた。私は唖然として彼のそっぽを向いた横顔を見つめた。あの玉井氏邸訪問はわれわれの青春の良き思い出の1ページじゃなかったか。ほんとに忘れてしまったのか。はて、この男はいったい誰なんだろう。昔馴染みの築山登美夫とはすっかり違った、見ず知らずのオッサンのようだぞ…。
実はこの他にも当時の彼の言葉には、昔の彼なら絶対に言わないだろう老人臭のようなものが紛れ込むことが多々あり、違和を覚えることが一再ならずあった。そしてこのパーティーの翌年、別の悶着が原因で彼とは決定的に交際を絶ってしまい、それから長い年月が経ってしまったのだが、昨年暮れ、人づてに彼が末期がんで余命幾ばくもないと聞いたときには、私は別段驚きもしなくなっていた。大学時代からの親友、築山登美夫は、私の中ではあの絶交の日をもって既に死んでしまったのだったから…。
「われわれが生を美しいと思わないのは生を思い出さないからだ」(マルセル・プルースト)とは言うが、ひょっとすると築山の場合はむしろその逆で、どう贔屓目に見ても美しくは見えなかった、いやむしろ酸鼻極まるとも言うべきその生の現実から、自ら眼をそむけて生き急ぐためにこそ、その生の出発点となったあの日々の思い出、とりわけ玉井氏邸を私と訪れた思い出などは、初めから無いものとして記憶から消去せずにはいられなかったのかもしれない…。
≪「うしろ向きに生きているせいなんだよ」とクイーンが親切に教えてくれた。「はじめはちょっと目まいがするけれどね――」
「うしろ向きに生きている、ですってーえ!」アリスはびっくり仰天して、クイーンのことばを繰り返した。「そんなの聞いたことないわーあ!」
「――でも、そうやって生きていると、とっても役に立つことがあるんだよ。つまり、記憶が二つの方向にはたらくってことなんだがね」≫(北村太郎訳『鏡の国のアリス』より)
繰り返しになるが、絶交した頃、老境に差しかかった頃の築山登美夫は、確かに私にとっては死んだも同然の存在でしかなくなっていた。しかしそれとは逆に、まだ若かった頃、互いに破目を外して遊びまくっていた頃の築山登美夫は依然として今も、そしてこれからも私の記憶の中では、みずみずしい存在感で生き続けている…。こんな侘しい送別の辞しか思い浮かばない。合掌。