このいちめんの花畑は、わずか二、三年前までは何の変哲もない普通の野菜畑だったのだが、この農家の老夫婦が耕作を放棄して娘さんに地所の利用権を譲ったのが機縁でこのような花畑になったらしい。このあたりには今でも古い豪農が点在している。往時はそれらの屋敷の周囲には見渡す限り青々とした田畑が広がっていて、一般の民家はまれだったのだが、近年はその広大な田畑もすっかり新興住宅地に変貌してしまった。ここに描いたような見事な花畑として再生するのは珍しいケースなのだ。
ちなみに、この農家さんのすぐ近所には<新見世>という屋号の老舗のうなぎ屋がある。作家の野口冨士男は終戦直後の1年5か月を越谷で暮らした人だが、彼の「薄ひざし」という短編に、この新見世が面白く紹介されている。
「…東武鉄道の鉄橋が見える川沿いの料亭には、警報のはげしかった戦時中も東京からの客が絶えなかった。
此処まで来れば酒もあった、妓(おんな)もいたにしたところで、来る客のすべてが家族をもたぬ独身者ばかりだったとは考えられない。空襲下の東京へ妻子を置きざりにして、はかない酒色をあさっていた庶民たちの、それもまた明日をも知れぬ刹那への自棄的な所業であったかと考えれば、世界の一等国を相手にまわして苦しい戦争にひきずられていた「一億一心」の真相も、阿呆らしい興ざめと言わざるを得ない。
たったいま笑って死んだ友もいる
街の辻々に貼り出されているポスターを見て、それをまた「たったいま笑って死んだバカもいる」などとモジったり、兵隊にとられた者は損だ、戦死した者は貧乏籤だなどとうそぶきながら、自分だけはそっと軍需関係の裏側から手をまわして「要員」という名目の特等席におさまりこんでペロリと赤い舌を出していた者たちも、大方はその種の人間に相違なかった。そんな客を迎える料亭が公然の営業である筈はない。客には横の入口からそっと入ってもらって、女中が履物をかくしても、板前が鉄架の前であおぐ団扇の音をしのばせても、往来にまでただよい流れる蒲焼の香をかくしきれるものではなかった。まして、酔客の声はどうしても高い。あの店では商売をしていると、町の人たちは蔭で噂をしたが、終戦となって数ヵ月を過ぎると料亭のほうが居直ったかたちで、れいれいしくも大びらになった。」(『越ケ谷小説集』越谷市教育委員会刊・所収)
