北千住・のんべ通りにて

JR北千住駅西口ロータリーから<富士そば>の前を南へ入る路地をゆくと、そこは古くからの居酒屋が軒を連ねるときわ通り(通称のんべ通り)だ。60歳で一切の勤め人生活から解放された私は、昼間から時間を持て余すようになり、上野・町屋・北千住あたりで昼呑みの味を覚えるようになった。上野なら<大統領>、町屋なら<ときわ食堂>、そしてここ北千住ではのんべ通りの中ほどにある<幸楽>が行きつけの千ベロ店だった。それらどの店にも共通しているのは、店舗内の四方の壁にびっしりと手書き文字のメニューが貼り並べられているということだろう。そのメニューを眺めているだけで吞兵衛の心は自然と踊りだしてくるのだ。とりわけ<幸楽>はメニューの品数が他の群を抜いている。その日にもよるだろうが、常に100種類くらいは用意しているかもしれない。
 そんなわけで、濃紺の地に白抜きで<大衆酒場幸楽>と書かれた、くたびれた感じの暖簾をくぐり昔風の引き戸をガラッと開けて中に入ると、広い店内はいつも大勢の酔漢がメエメエモーモーと犇めく家畜牧舎の観を呈している。そして吞兵衛のサガというか、そんな引き戸を開ける瞬間はいつもきまって何かワクワクと、不思議の世界にでも入り込むアリスの気分になるのである。
 今から5~6年前のある昼前も、そんなふうに心躍らせて暖簾をくぐったのだった。しかしその日に限ってカウンターもテーブルも小上がりも満席だった。面食らってどうしたものかと立ち往生していると、そばのテーブル席に掛けた独り客が、「兄さん、相席いいよ」と声を掛けてくれた。お礼を言って向かいの席に坐ると、彼は自分の刺身皿やジョッキを手前に引き寄せ、こちらのスペースを広くしてくれた。ぽっちゃり顔の小太り体型でもあり、何か親しみやすさを感じてくつろげた。
 しかし、この男の風体は少し変わっていた。派手なリボンを巻いたカンカン帽をかぶり、大輪の花柄のステージ衣装ふうの青いスーツ。金メッキのブレスレットがテーブルの上でピカピカ。フーテンの寅さんのようなダブルスーツのダボシャツタイプもそうだったが、この男のような芸人崩れタイプも昭和30年代くらいまでなら、東京の下町には普通にゴロゴロと徘徊していたものだった。いわば往年の<灘康二とモダンカンカン>スタイル。これはしかし、今では辛うじて浅草の六区あたりの路地くらいでしかお目にかかれない絶滅危惧人種になってしまった。男の前席でビールを傾けるうちに、そこはかとないノスタルジーが湧いてくるのも当たり前と言えば当たり前だった。
 その頬はすでにほんのりと酒色を帯びていた。50代後半くらいだろうか、酒色が似合ってくる年頃というものがあるのだ。その目つきは穏やかだが、それはあくまでカタギを前にした時のモードといった風情だった。いったんスイッチが入るとガラッと雰囲気が変わるのかもしれなかった。
 勤め人時代と違って、他人と話をする機会がめっきり少なくなったその頃、私は心身のバランスを保つために、相手かまわずできるだけ人と話すことを心がけるようになっていたし、人見知りしなくなってもいた。こういった吞兵衛との相席は望むところだったが、よく考えるとそれこそが何より雄弁に心身のアンバランスを物語っていたのかも……。
「よく来るの? この店」と男が訊いてきたので、私は上野や町屋にも行くことなどを喋って話しに弾みをつけた。彼が言うには、用事があって北千住に来たので、たまたま幸楽に立ち寄っただけだと。いつもは日暮里や鶯谷あたりで呑むのだと。東京の下町で育った男はシャイだがざっくばらん、開放的でもあり遠慮がちでもありという複雑な性格を持つ。その頂点がビートたけしあたりだろうか。ともあれこういう相席では互いの氏素性はおろか、身の上話しなどの野暮に陥らないようにデリカシーをフル回転させながら楽しい世間話を展開してゆくテクニックが何より求められる。それに関しては彼は一点非の打ちどころの無い、すこぶるイキな<相席玄人>だった。
 ビールを1本開けた頃、こちらも少し酔いが回ってきた。ここまでさまざまな世間話に花を咲かせつつチビリチビリとやってきたが、やがてラーメン屋はどこが旨いかという他愛無い話しになっていった。男は東京近辺のラーメン屋に詳しく、どこのラーメン屋はどんな出汁を使っていてどう旨いなどと解説してくれ、ラーメン好きの私は興味津々で彼の話しに耳を傾けた。いま思い返すと、彼は日々のシノギにラーメン屋でもやっている香具師か何かだったのかもしれない。ともあれそのとき、会話を脱線させるのが好きな私はついふざけて、
「そういえば、人間の手首を入れて出汁をとっていたラーメン屋があったねえ。旨かったのかねえ、そんなもん」と笑い飛ばした。すると彼は、お愛想笑いでも返してくるかと思いきや、にこりともせずに、
「すいませんねえ、俺のダチ公なんだよ、あれ」と目を落として呟いた。
「はあ?」と面喰らっているわたしに彼は、
「あの手首のラーメン屋さあ、俺の友達でさあ」と続けたのだ。しばし絶句した……。

――1978年、東京の下町で「手首ラーメン事件」なる猟奇的な出来事が起こり、しばしマスコミを賑わわせたのを憶えておいでだろうか。荒川の土手あたりを行き来する屋台のラーメン屋、いわゆる夜泣きソバ屋が寸胴ナベの中に人の手首をぶちこんで出汁をとっていたというグロテスクな事件である。背景にあったのは、その屋台ラーメン屋などのショバ取りも絡んだ、ヤクザ同士の縄張り争いだったとか。しかるに、カタギの屋台ラーメン業界への風評被害に気を回した警察がはっきりとしたプレスリリースをしなかったようで、事件の詳細については諸説紛々だったらしい。大まかな理解で言うと、犯人は殺した相手の死体をバラバラにして捨てたはいいが、指紋から足がつくのを嫌って両手首だけは身内のラーメン屋に出汁の材料として進呈したということらしい。そのラーメンがどんな味だったかというバカ話も含めて各週刊誌が大騒ぎしたものだった……。

 ポカンと話しを聞いている私の前で、男はタバコをくゆらせながらその事件の<真相>を訥々と語り始めた。
「あれは、殺したヤクザが俺のダチ公に<ラーメンの出汁に使ってくれ>って、くれてやったんだよ。だけどマスコミが書いてたみたいに、殺したやつが手首を切り落としたんじゃなくて、殺されたほうが<死ぬ前にせめて指を詰めてお詫びしたいが、指だけじゃ気が済まない。手首から詰める>って、自分で切り落としたのがほんとなのさ。だから片方の手首だけだったんだ。両手じゃないんだよ」
「なるほど。そういうことだったのか」と合点したときには、酔いが醒めてしまっていた。
 この男の話しが本当かどうかは分からないが、報道された事件の詳細にもっともらしい異説を唱えたところを見ると、まんざら冗談でもないのだろうと思った。しばし遠くに思いを馳せるように無言でいると、男もこちらが相席を強制終了したがっていると気を回したのか、いきなり話題を切り替えてくれた。
「ところで兄さん、こっちのほうは?」と左手で右手の二の腕を押さえ、その右手をぐいと突き出してきた。
「そっちはもうダメだねえ」と答える。
 それからいっとき、下ネタ話しに花を咲かせたのだったが、その最中に男が何かせわしなく、隣の椅子に置いたカバンの中身をガサガサかき分け始めた。下世話な話の最中なので顔は笑っているのだが、眼だけは真剣に何かを探しているのだ。こちらも少し気になりだす頃、男はついに銀色のシガレットケースを取り出し、そのフタを開いておもむろに小さなビニール袋を1個だけつまんで私の前に差し出した。手のひらで受け取ると、透明な袋の中には薄茶の錠剤が1個。
「これ使いなよ。バイアグラだ」
この男はここでもまた意表をついて、驚かせてくれる。
「半分に割って使うんだ。だからそれ、2回分だな。割らないで服むと、身体がどうなったって知らないよ」と呵々大笑。確かに錠剤の真ん中には割りやすくするための溝が入っている。
 居酒屋の相席の上での猥談などというものは、だいたいが初対面同士の話しを弾みやすくするため、よくオードブル代わりに会話のとっかかりに始めるものだ。この男との会話のようにあれこれ他の話題で盛り上がったあとに、クールダウンのための整理体操のようにそれを始めて、ましてバイアグラという現物支給のプレゼントまで仕掛けるという展開は、ちょっと他所の相席では考えられない不思議な体験だったと言うしかない……。
 ちなみに、そのときのバイアグラ1錠はそのまま財布に入れてお守り替わりにしていたのだが、ある晩その財布を近所の飲食店街で落としてしまい、財布ごと失くしてしまった。その後、その財布が出てこなかったのは、拾い主が中の金目のものに目がくらんだのではなくて、バイアグラに目がくらんでのことだろうと、ひそかに寛大な気持ちになっている。